目前を生まれたての(?)黒揚羽がふわりと飛んで行った。
この柔らかな身の翻しが美しかった。小さな感動。 野良ネコが居すわりはじめた。 前々からちらちらと出没していて慣れてきたのだろう。 外に出してあった毛布の上で寝ている。 まだ警戒心があるのか。 近づくと逃げていくが、眼が合ってもじっと見つめるようになった。 堂々と侵入し、いつか自分のテリトリーとしてしまうのも時間の問題だろう。 『名前はまだない。』
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アメリカ映画には2つの大きな岩塊がある。
対立構図を内燃機関とする宗教と、家族という観念である。 この2つがナマに現れるのがオカルト、恐怖モノのムーヴィーである。 共通するマインド(心、精神)の底に不安感が沼のように沈殿しているのではないか。 空漠たる風景の中に一本の道が走っている。 国道。何もない土地、砂漠の美しさをきわだたせているのは、この白い道である。 ここに流れている時間、経過するのは日の巡りである。 事件など起こりようがない。 人も車もこの砂漠の外で呼吸しているのだ。 アメリカ人の心象に潜むこの沼と砂漠、不安という家。 教会も聖書も不安のアイテムではないのか。 マネーを付け加えてもいい。 神とアクマ、善と悪はいたるところに出没する。 アフガニスタンだろうと、ある一家のバースディパーティだろうと、 不安神経症的なシーンにこと欠かない。 なぜパーティなのか、なぜ群れるのか? 広大な砂漠の広大な不安の上に、高層ビルもアメリカという国家も市民権も立っているのだ。 ラスベガスの快楽を支えているのは、砂漠の不安である。 不安を土壌とするのは、スペースシャトルでもマネーゲームでも、あるいは 新しいものへのデベロッパー(マインド)でもいい。 PCのなかにもしのびこんでいる。 PCというデヴァイスのそのものが〈不安〉をモチーフとしているのではないのか? 何という映画を見たのかは秘密。 どんな映画にもこの不安は露出しているのだ。 芥川の『羅生門』・・・『門とはなにか』の文章をUPしたら、
たまたま『芥川の遺書』を読むことになった。 『ぼんやり』ということばが特別な響きになって戻ってきた。 『存在』(生きてること)へのある繊細な距離のとり方のことなんだと思われた。 彼のこの感じ方は、論理の整合性や感覚的な触知ではないのだと思う。 結局はことばのイメージ肥大とでも言ったらいいのか、 理知のことばの進行はとめられないが、 そこから抜け落ちていく存在への共感でも嫌悪でもないが、 あるキョリの感覚があって、 そこに『ぼんやり』という身体的心的(心体的か)なおもりが落ちたのだろう。 『あるぼんやりとした不安』は、近代人の心の底にいつも漂っているのだろう。 問題はこの『ぼんやり』へのきょり(感)のとりかたなんだろうね。 『in to the wild』
ショーン・ペンのナレータームーヴィー。 「自伝」の映画化。アメリカ。 都市から砂漠、アラスカへ。 かつて西へ向かったアメリカ。 この青年23歳のアラスカは北。 北へのジャーニーはlonlyness。 それは逃亡の〈劇〉である。 アメリカの市民、家族であることの破綻。 アメリカの子供たちは、不幸か悲惨を選ぶしかない。 父と母の不幸なモノガタリはアメリカという国のそれである。 辺境に集まっている老人たち。 ギターから流れるフォークソングやロアも寂しい。 '68年以降ナニが起こっていたのか。 〈戦争〉という暴力の日常への制度化、 もはや共同体を結びつける共通感覚が失われ〈マネー〉が個人化する。 北へ、だがアラスカの〈荒野〉は、アメリカの罠でしかないのだ。 ルソー、トルストイの時代の〈義〉は失われている。 正しいことを述べることも実践することもない。 人と人がまっすぐに向き合ったトキ にのみ、 その不幸や孤独のなかに発火する火が見える。 この映画は荒野、砂漠が舞台であっても決して wild lifeに救いがあるとは言わない。 アメリカという国の中で、〈私〉がどう生きられるのかが問われている。 詩は私たちのことばの中に潜んでいるイメージの種子に依りかかっている。
種子が積もり合っていることばは、モノとしてでなく関係網、関連の網目なのだ。 だから、イメージも多様だし、辺縁では相反するものまで含んでいる。 ボブディランのディランがディラン・トマスの名前盗りとは知らなかった。 ジム・モリソン(ドアーズ)がニーチェ読みの〈詩人〉であるとも知らず。 時代というしかない'68年。 詩がアジテイトできる程、ディープであった時代。 ジミー・ヘントリックス、ジム・モリスン ジャニス27歳、潔く死ねた時代。 連日の雨。交通事故。同じ所で3件。
窓外の〈日常〉なのだが、3.11以降どこかに幕が下りてしまっているらしい。 イマが映画のフィルムの中の感じである。 多分イママデの〈像〉は記憶も含めてリアルなのではなくて リアルなのだとムイシキに前提していたのだろう。 イマの定像化しきれない状況の方が多分意識的な分リアルなのだろう。 だが人は慣れる。 船酔いは生涯続くのだ。 『徒然草』を読んでいる。
僧侶なのだから、きっとこういうはずだという期待を見事に裏切ってくれる。 僧侶ゆえに『ひねて』いるのだろうか。 常識とか世間様の言うことをそのままに受け入れているのなら 『書きつくる』意味はないだろう。 『俺はちがうぜ、こっちの方がおもしろい』 という眼のつけ所があってはじめて『書く』のだ。 だからこの法師のちょっとしたひねったことばにも含蓄があるのだろう。 だいたい短文なのがいい。 昨今の小説の大作主義はたまらない。 欧米、ラテンの文学もなぜあんなに長大なのかね。 そういえばピカソに限らず絵画の世界も大きいねぇ。 吉田君、何か一言、言ってくれ。 『大きいのはタイクツだ。』(これば私のことば) 『つれづれなるままに・・・』だったなぁ。 『お腹が痛い』、なんだか周りにどんどん増えている。
3・11以降と言うわけでもないが、私も胃が痛い。 そういえば、小中高のころも『お腹が痛かった』記憶がある。 トイレの中で、お腹をさすって〈神〉よ、神よとカミサマを呼んだのだ。 痛みがとれるはずだ、この手はgod handなのだと念じていたことを思い出した。 信じることだ。 『俺は神の手を持っている』と。 で、その結果は同だったかって?ハハハ。 18世紀半ばに生まれた『人間』というモノ。あるいは『観念』。
フランス革命の『人権宣言』によって普遍的に定義づけられたニンゲンも イマ相当にダメージを受けている。 200年も生き続けている『人間』もそろそろ死期を迎えるころなのかもしれない。 いまだ新しい『ニンゲン』は生まれているわけではないが、 200年に渡った『人間』の賞味期限が近づいている。 人間のロボットへの接近。 身体の内部も種々の人工臓器が代理し、 アタマの代わりをデジタルなマシンが代行する。 ロボットの方もアンドロイドとして人間化へ急接近。 『人間機械論』は正しかった? ぜひ『エイリアン』(ただし1ですよ。)を見てみたまえ! 次の『人間像』がどんなものかがわかる(かな)。 (有機物と無機物が融合したらどういうものになるのか?) |
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