『山椒魚は悲しんだ。
彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、 頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。』 日本という岩屋、日本という『山椒魚』。 東洋的諦念による<和解>などとシャレたことを言っている場合ではないのである。 作者の最後の校定版は<和解>のラストシーンはカットされている。 「お前は馬鹿だ。」 「お前は馬鹿だ。」 という言い合いだけが岩屋にひびいている。 「何たる失策であることか ! 」
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プロパガンダ。
広告・宣伝の本当の狙いは何か。 政府の『政策』をも動員して『正義』を作り上げる仕掛けを、 なぜ<学者>というプロは解説できないか。 国民という幻像をもくりだして、 平和裏に、オダヤカに進行するソフトファシズム。 決してオダヤカではない。 問いはただ一つ。 『そのとき、本当は誰がその正義という名によって保護されたのか?』 宮澤賢治の『なめとこ山の熊』の話しを想い出した。一読を。 情報は伝達されているのか。
生なインフォメーションはいつのまにかインフレーションをおこし、 フィクションの中でひとり歩きを始めてしまう。 それらの巨大な嘘の中では、真実の方がウソっぽく見えてしまう。 国家が国や国民という名目を表に出すトキは、 100%のフィクションを用意しているといってもいい。 そうだ、言うまでもなく、電力であり原発のことだ。 「コトバ」4号を読まれたし。 フィクションが嘘というわけではない。 見えない真実は、見えるフィクションより、 より奥行きのある事実を伝えるフィクションの中で見えることもある。 (こともある・・・という所がミソ。) ↓ ふつうは見えないということ。 日本人の日記にはまずその日の天気が記入される。
日記を書き始めるアイサツみたいなものなのか。 安心するのだろうか。 平常を支えている空の模様の確認の儀式。 小林一茶の『日記』を想いだした。 公刊されてはいないだろう。 何十年か前に発見されたとき、 岩波書店の『文学』(雑誌)だったかにその一部が載っていた。 驚嘆。 唖然。 呆然であったが、一茶の俳句の『カナシミ』が直通してくるようだった。 この日記には天気のことと・・・・・のこととのふたつの記載だけがあった。 他はなにもなかった。 悲愴と言うべきかどうか、凄いと言うべきか、 以来一茶の句を見るとこの日記が前にでてきてしまう。 (最も近年は見ないのだが。) 天気の記入は日本人のココロを鎮めるなにかなのだろうか。 直立二足歩行が人間のすべてなのかもしれない。
直立することによって<世界>が発見された。 目線のモノガタリが始まる。 目前のエモノや敵の存在の向こうにもっと大きな<存在>を感知し始める。 抽象はイマジネーションのカタチとなって見えないものを視はじめる。 幻視、ヴィジョンの発見である。 ここからココロのようなある直截的な感情が動き出す。 多分初まりは<怖れ>。 二足歩行によって前足(肢)が自由になる。 手が<世界>を工作しはじめるのだ。 直立によってココロの原風景が叫び、そしてことばを発見する。 手の工作によって文字が<世界>にカタチを与えはじめる。 まいにち湿っている。
今日も昨日につづいてナメクジ君を思いっきり素手でつかんでしまった。 ゲゲッ、の感触。骨までびっくりして硬くなってしまった。 明かりに触れたついでに、原子力の無音の中に広がっている均質な照明にも触れておこう。
中性的、、まったく偏りのないグレートーンを基調としたホワイト。 ここにはまるでノイズがない。 白いうす闇が漠然と広がっている。 おそらくこの時空間は、『人間』の事象が意味を失っているところなのだ。 いうならば、地球外の(静寂)がフッと降りてきているのだ。 やっかいなことに、イマ人間はここに冥府を最後の地を待っているらしいのだ。 ここには、戦いはない。 すべてが完了しているのだ。 憎しみも愛も、悲しみも楽しみもない。 白い感覚がボーっと広がっているのだ。 『やはり、原子力は人間の最後の地なのかも知れない。』と思わせる静寂があるのだ。 (ずいぶんと悲しい結末だなぁ。20世紀からずっとイマも人間は相当に騒々しいからなぁ。) 冥府がうすぐらいのにはわけがある。
昨今の照明を体験すればわかるだろう。 うす暗い方が安まるのだ。 電飾世界の色彩と自然光の中の色彩を較べるまでもなく ヒトは自然の中で感覚を平衡維持しているのだ。 <刺激>は一瞬の覚惺に過ぎないのに、 日常化していると感覚の方が疲れ鈍くなっていくのだ。 この事態こそが<地獄>なのだと言うべきだろう。 ゲーム、テレビづけの少年少女の諸君、 極彩色のキレイな画面こそ、地獄なのだと自覚したまえ。 子供ばかりではあるまい。 <地デジ>も同様の地獄なのだ。 暗闇が消えて久しい。 せめて冥府ぐらいは、暗さへの平安を保ってほしいものだ。 誰しもが最後に行くところなのだから。 大きな山も越えた。
大きな海も渡った。 小さな石の上で滑ったひょうしに転倒した。 小さな傷だからわずかな出血。 躓きの石はいつだって小さい。 この石が曲者なのだ。 遠くの方を見ていると手元の石は見えないのだ。 だから中眼(ちゅうがん)の構えをする。 |
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