アメリカ映画には2つの大きな岩塊がある。
対立構図を内燃機関とする宗教と、家族という観念である。 この2つがナマに現れるのがオカルト、恐怖モノのムーヴィーである。 共通するマインド(心、精神)の底に不安感が沼のように沈殿しているのではないか。 空漠たる風景の中に一本の道が走っている。 国道。何もない土地、砂漠の美しさをきわだたせているのは、この白い道である。 ここに流れている時間、経過するのは日の巡りである。 事件など起こりようがない。 人も車もこの砂漠の外で呼吸しているのだ。 アメリカ人の心象に潜むこの沼と砂漠、不安という家。 教会も聖書も不安のアイテムではないのか。 マネーを付け加えてもいい。 神とアクマ、善と悪はいたるところに出没する。 アフガニスタンだろうと、ある一家のバースディパーティだろうと、 不安神経症的なシーンにこと欠かない。 なぜパーティなのか、なぜ群れるのか? 広大な砂漠の広大な不安の上に、高層ビルもアメリカという国家も市民権も立っているのだ。 ラスベガスの快楽を支えているのは、砂漠の不安である。 不安を土壌とするのは、スペースシャトルでもマネーゲームでも、あるいは 新しいものへのデベロッパー(マインド)でもいい。 PCのなかにもしのびこんでいる。 PCというデヴァイスのそのものが〈不安〉をモチーフとしているのではないのか? 何という映画を見たのかは秘密。 どんな映画にもこの不安は露出しているのだ。
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