『アリス』 やはり△だった。
映像のつまらなさ。 ストーリーの退屈さ。 ルイス・キャロルの論理(学)のおもしろさなど ふっとんでしまっている。 もちろん独自の<視点>がおもしろければいい。 いったい誰が見るの?
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『パブリック・エナミー』 未映画。
2番煎じ、3番煎じなのだ。 映像は美しい(?)。 このギャングムーヴィーの量産はかつての西部劇の代替なのか。 イマのアメリカのマインドが奈辺にあるのかを考えるかっこうの映画かもしれない。 1930年代と現代は通底しているようだ。 (もちろん順接しているのではない。) テシネ監督 『ランデブー』。
現代のロミオとジュリエット。 ―十年前の映画? ビノシュのデビュー当時のフィルム? 必見。 エキセントリックなフランス人たち。 『やさしくキスして』 (the fond kiss)
ケン・ローチ監督。 いきなり結論。 「宗教とは信仰ではなく、この世界に不都合な状況を作るための手続きなのだ。」 現在がどのように宗教を受け入れているのかがよく実感しうる。 日本とはその対極にあるようなシンドイ問題である。 進歩が常に全体や集団の権力や権威からの解放であるとするなら、 まさに宗教は、反進歩のとりでみたいなものになっている。 言い忘れた。舞台はイギリス、グラスゴー市である。 大学が5つもある都市でのはなし。 個の人生を生きるのも、信仰のてっぺんや底辺をはねとぶのも 私の決定にかかわるのであれば、 まずは、<私>の世界の成り立ちを問うこと、 その不条理に向き合うことが必須の条件だろう。 ケン・ローチ監督<社会派>の思考法にはいつも勇気付けられる。 日本語の題はひどい。 科学という学問や立場は、それ自体でどんどん更新する。
(必ずしも進歩ではない。) その先端競争がどんなものかは問わない。 やっかいなのは、科学もまた政治、経済、人間の欲望、権力欲や金欲の中で 育つということである。 研究が現実と剥離しているのは、当然なのだとしても それは現実の人間の欲情の中に浮かんでいることにかわりはない。 欲の皮によっては、どんな純粋な客観も右往左往してしまう。 <人類>という大きな抽象において 右、左を考えてみることに大きな意味があるとは思えない。 むしろこの<人類>という言い方が何をいんぺいしてしまうのか、 そのかくれみのの性質を考えた方がいいだろう。 原子力の話である。 『まねる』が『学ぶ』にならないとどうなるか。
NHKの朝の連ドラを例にしてみよう。 現実に似せて、セットもセリフもストーリーも『真似られる』。 しかし役者の力量は別にしても、いかにも『真似』ているのだ。 真似るのは、いい。 その先なのだ。 『表現』に到らなければ、 どうしてもセットもセリフもストーリーも浮いてしまうだろう。 現実に似せて<リアル>を失っている。 リアルはそこで<学ぶ>こと、 つまりセットもセリフもストーリーも『新たな発見』へつながるものなのだ。 リアルとは真実らしさではない。 表現における<発見>である。 年季の入った役者たちの仕草や声が支えているようなドラマは 『紙芝居』のリアルもないだろう。 『黄金バット』のあの『ワクワク感』はどこに消えた? 『死亡遊戯』 ブルース・リー(続)、凡作。
殴ること、相手をやっつけることの心的な快感がない。 つまり殴ることの実質的バックボーンである怒りやいきどおりがない。 階級社会の格差の問題がその<暴力>を支えていたのだが、 技術やヒーロー作りに力点が移ってイキナリつまらなくなってしまった。 NHK・BS 『タケシのアート&ビート』(?)、
タップダンスのキング(23歳)、名前が出てこない、セ・・・グロー・・・さん。 「タップダンスは、musicなのだ」ということ。 good。 テクニックではない、スピリチュアルな、 それも大地からやってくる<気>を自分の身体感覚の中で躍らせるような、 ハッピーなダンスなのだ。 の曲に合わせたダンス。 まさに<道>を求めるようなspiritualな、deepなリズム、good。 『ドラゴン・危機一髪』 ブルース・リーのmv.
初めて見る。 多分初期のブルース・リー映画なのだろう。 リーのアクションがなぜおもしろいのかのバックグラウンドがわかった。 民衆の<苦難>がそのアクションの発条(バネ)なのだ。 単なる動きの、スピードのおもしろさではない。 <感情>による殴打なのだ。 いわば、見果てぬ『民衆革命』のムーヴィーなのだ。 モノガタリの善悪二元論や観客サービスを取り除いて見れば <革命>である。 脱帽。 |
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