ダイハード4。
この映画の<騒々しさ>はスゴイの一語。 音も音響も、シーンの派手な破壊も、 スピードもその展開シーンの速さもさすがに前作までのラインを超えている(のだろう。) とにかく「説明」などはない。 次々と展開する。 しかし、言うまでもないが、観客は説明などなくとも十分に知っている内容なのだ。 この映画は、<現実>をデフォルメして追いかけているだけなのだ。 だから人物がどうのこうのといったまだるっこしいものはない。 主人公のスーパーマン的アクロバットが繰り広げられるだけでいい。 この<騒々しさ>を駆り立てるものは何なんだ? なにもないという空白感なのか。 新聞の全面広告に登場する女性たちの空白感は意図された無なのだろうが、 このダイハードもまた、<人間>の肉体(への感受性)の無を意図しているのだろうか。 ダイ(死)の無機質化が極まったということなのか。 観客の承認を待っているムービー。その巨大な空白に何が落ちてくるのか。 人間の死の、その空虚を埋めるための、「映画」なのだとしたらその意図は十分に伝わっている。 テーマや展開の嘘くささやむじゅんなどなんでもない。 ただ<死>ばかりがはねている。
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冬になると 「不調」 がはっきりする。
やりすごしてすむ内はいいが、躓きひとつがスベテに伝わっていく。 人間の身体も、社会のカラダも同じである。 動くものはすべて身の内にひび割れをかかえている。 その割れ線の中を暗い水が流れているらしい。 山もまた鳴動する。 21世紀、<世界>のひび割れは一瞬の地震、M10へ向かうのか。 スネやハラやコシがかゆい。 乾皮症?ギックリ腰、新聞をめくったらグキッ。ウー。 歯が浮く。 あー、歯槽のうろう。 足の指がつる。 つまり「老人」? だんだんと 「老人力」 がついてきた。 ぼけも少し。 なになに、<世界>も老人なのか?ぼけたのか? 医学界と栄養学界と薬品会社ともろもろの関連会社や
~界の<利益>のためにつくられた機構やシステムを検証する機関は皆無。 「国民のため」、「健康のため」etc、という美名(?)の下に 病人にされ続けている「患者」。 何人の話ではない。 何千万人、国民の大多数がこのシステムに組み込まれているとしたら、 誰が、どこが<責任>を負うのか。 新聞社も政府も患者ではない。 だからシステムのからくりを問う勢いはない。 党利や広告社への<利>が先決する仕組みの中で肥大する患者。 病んでいるのは、この国そのものなのか。 「感動モノガタリ」でこの国の悲惨をおおい隠しているのも、 もう終わりに近い。 糖尿病は、国民的病ではなく、国家的病いなのだ。 雨の中、黄葉、紅葉。
色がとりどりに乱れている美。 画一的な新聞紙全面つかった企業広告、 美しいはずの外国の女性のミニクサに広告ヤさんは気付いているのだろうか。 <ブランド>という商品のナニを「見よ」といっているのか。 女の子(というにはあまり可愛気はないが)のスタイルや顔にはりついている <現在>をアピールしているのか。 それとも「money」の底力をふりまいているのか。 しかしいづれにしてもヤハリミニクイのだ。 このミニクイは、美の反対のことではない。 眼にどう移るかは問題ではない。 全面に広告するそのコンタン、外国の女の子を引きだすマンネリズム。 ココロをがさつかせるのだ。 そのように読ませるシンブンという紙面がミニクイのだ。 目の前の「困った」は、ケースバイケースで解決する。
なぜ「原理・原則」では難しいのか。 利害が複層化していて、絡まった糸をほどくのに時間がかかりすぎる。 そうだろう、糸ならまだしも 紐になったスチールではどのくらい時間があっても足りないだろう。 人の命を奪いかねない事件では、どうか。 解決がその<場>をやり過ごすことを意味しているなら 単に問題の先送りであり、解決の放棄でしかあるまい。 原理原則は始めから後方の扉の奥に奉られているのだ。 そこでなのだが、「原理とは何だ?原則とはなんだ?」 と問うと同じく、「解決」とは何なのだと。 問うことも忘れてはなるまい。 フクシマ、オキナワ、etc |
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