『枕草子』 清少納言
読解 『枕草子…夜のいろはなにいろ?』
『枕草子』第一段を読み解く。つぎのような面から考えてみる。分かりやすくするために
あらかじめ書き出しておこう。
視点 1.時間(太陽の昇る時間、落ちる時間)
2.色彩 ①全景(背景の色)
1)単色景 2)カラー景
②点景(物)の色
③グラデーション(色の時間変化)
④黒色
3.寒暖
4.遠近
5.大小
6.点景
交錯 1から6までの視点が、基本的には対比構造によって叙述される。
後述するが、すべてのなかで時間が動いている。時間の経過の中で、描かれるの
四季、春夏秋冬の移りゆきである。いわば、春、夏、秋、冬は、ひとつひとつが器
である。移ろい行くものを容れるうつわなのである。しかもうつわのなかでの経過
する時間は他の季節の、さまざまな視点(アスペクト)とも連合され、対比され、交
錯される。
交錯は単純ではない。季節をまたいで捩じれた対比構造もある。ひとつ
の季節の時間帯にしても、単一の彩色ではない。色彩の中にも時間の経過が入り
込んでいる。おもしろいことなのか、不思議なことなのかはわからないが、〈昼〉が
前面化することがないのである。冬の場面で昼ということばが出てきたら思ったら、
『わろし』で、第一段が終わる仕組みである。
視点には分類しきれない対比構造もいたるところに潜んでいる。探しながら読ん
でほしい。
1)単色景の夏と冬の色彩感覚
夏の段と冬の段は特に色への感覚が研ぎ澄まされている.色とはカラーのことではない。
『枕草子』のなかでは、景物と色彩は不可分のものであって色だけを取り出してはいけな
い。物と色、大きさと小ささ、遠近など、清少納言、そして私たち、見る者の情感ともども
にイメージしなければならない。
春夏秋冬の場面を考察する前に、夏と冬の色彩の変幻ぶりについて書いておこう。
1.夏は夜
夏は夜。 黒のイメージ、夏の段は黒が背景色となる。
月のころは 月の色は中空に掛かるころは黄色から白へと変化していく。
さらなり、 全体としてはひとつの大きな薄黄色である。動きはあるが、見てい
るときは静的である。大きなきいろが静かに移ろっている。
闇もなお、 月の明るさを出して、闇を引いてくる。月を消すのだ。ふたたびの
黒の世界を全景化する。
蛍のおほく 黒を背景として、黄色と緑の光りが走る。イメージに残る月の大きさ
飛び違ひたる が効いている。小さくぼんやりと光る緑と黄色はもちろん月の細分
化されたイメージである。大から小への転換である。たくさんの小
さい黄色があちらこちらにすじを引いて流れていく。
また、ただひと いったん黄色を前面にまき散らしたあと、ふたたびひとつふたつへ
つふたつなど、 と絞り込んでいく。黒がみたび領してくるのだ。
ほのかにうち光 その黒のなかにほのかに光る蛍光を探していく眼。黒から黄色ヘフ
りて行くもをかし ォーカスする。小さな動きへの偏愛もさることながら、作者の眼は夜
の、闇の質感をも見ているはずである。黒一色の漠然とした夜の黒
よりも、ひとつふたつの黄色い光りのなかの方が黒はいっそう黒にな
る。その中で感じ取っているのは、ほのかな光りへの哀惜とともに夜
の闇の濃さなのかもしれない。
雨など降るも 黄色が消える。黒の世界が戻ってくる。反転に次ぐ反転、大なる月か
をかし ら小なる蛍の消滅まで黒と黄色の交代劇である。黒と黄色のダンスで
ある。静なる月の大きなゆっくりした動きと、蛍の小さな流れるようなス
テップ。さて雨である。月と蛍の色を消すように、白い雨が降ってくる。
おそらく雨もまたゆるやかな、柔らかい夜の雨だろう。黒から始まって
黒で閉じる夏。
2.冬はつとめて
冬はつとめて 白のイメージと寒さ。すでに日は昇っている。
雪の降りたるは 全景を白一色ではじめる。この段の背景色である。
いふべきにあら 白いというだけではない。他の色を消している色なのだ。
ず 前段の秋の多彩色を刷毛で一掃し、新たなページを開いているのだ。
新鮮なすがすがしい朝。
霜のいと白きも もちろん霜の降りた地面の黒は地にある。隠されている黒である。
いと寒きに 寒暖の主題である。寒さによって、春夏秋の段からいっきに人間の
世界が入ってくる。寒さもまた白、黒のシンプルな精神に直結して
くるものである。
火などいそぎ 赤と黒。イメージの背景には、寒さに繋がる雪や霜の白がある。
おこして、炭 蛍や雁、カラスなど空を飛ぶ点景物に対して、赤く燃え上がった炭
もてわたるも が回廊を「わたる」。この赤も黒も、寒さ同様に、人間の精神に対
して強烈なアクセントを持している。
昼になりて 昼、朝の寒さが解かれていく。もちん精神も緩んでいくだろう。
ぬるくゆるび 昼の記述はここだけである。「ぬるく、ゆるんだ」昼。
持ていけば
火桶の火も 火桶とはなにか.炭を入れ、火をおこすものとはなにか。
白き灰がちに 白き灰がちになるとはどういうことか。燃え殻としての灰。白で
なりて 始まった冬が白い灰で終わる。黒い炭も燃えてしまったのだ。黒か
ら赤、そして白へ。
わろし 春夏秋は賛嘆のことばが連なる。冬は賛嘆そして打ち消しで終わる。
家の外は「をかし」、「あはれ」、「いふべきにあらず」なのだが
昼の日中の、家の中の、火桶のなかの白い灰は「わろし」なのである。
2)はる、なつ、あき、ふゆの読解
1.春 『春はあけぼの』
あけぼのという断定。あけぼのがいいではない。春の段には、ことばとして、
をかしも、あはれもない。この短い文の中に入らないというのではない。不要
なのである。入れてはならないのである。『春はあけぼの』という断言こそが
すべてである。ことばを費やして文を弱めてはならないのである。『枕草子』
のことばは、今でいう詩的なレトリックに安直に寄りかかってはいない。文自
体が緊密な構成のなかに置かれている。説明のための冗長なことばは一語
もない。(漢詩、漢文の教養なのだろうか。)
『やうやう、山ぎは、すこし、細くたなびきたる』
部分法。提喩ではない。全体を暗示させるのではなく、少しの部分、小さな部
分に視線を集中させていく。もちろん背景として全体はそこにある。微細なと
ころ、ちいさな動きを捕らえているのだ。目線は遠方にあって、山や雲の動き
を追っている。色をかえて広がっていく空全体を受容している。移り行く景色、
大きな空の色の変化を天空のなかに見ている。すでに時間の経過と色の変
化が同時化されている。
2.夏 『夏は夜』
春の段の明を暗に切り換える。夏と冬の、黒と白の一面化の表現は前の段の
反転であるだろう。
『月のころはさらなり』
月の色は赤、黄色、白色と昇るにつれて徐々に変わっていく。ここでは黄色か
ら白への推移中の静止した月がいい。満月ではなく、満月に近い月がいい。
満月だと、月の抱えている時間が止まってしまうだろう。見慣れている、まるい
カタチと、月のいる位置、月の大きさがいい。慣れ親しんでいるというのが似
つかわしい。いま発見したての感動ではいけない。月がなんども昇ってくる記
憶のなかをも探っているのである。
『闇もなほ蛍のおほく飛びちがいたる』
蛍に目が行きそうだが、清少納言の眼は闇に据えられている。闇がいいので
ある。蛍の明滅によって闇の深さや、闇の質感までもが見えてくる。闇を愛でる
とはまたすごいことではないか。私たち、近代人にはもう闇の質感までは触知
しえないのかもしれない。蛍光の明るさ、暗さが滲んだ黄色い明るさも感得で
きないことなのだろうか。
生命の在りようが違えば、当然、蛍の光りの光跡の感受もことなるのだろう。
いまの私たちの蛍への距離感で、平安時代の蛍の光りがイメージできるわけ
でもないのだろうが、ホタルというイノチのモノガタリの中の意味は理解できる
だろう。
『またただひとつふたつなど、ほのかにうち光りて行くもをかし』
眼は闇の深みから蛍へ戻ってくる。一つ二つの蛍の明かりなどほとんど見えな
いだろう。見えないところに眼を凝らしてほのかな明かりを探し求める。この探
し求める行為が「をかし」ではないのか。ほのかなあかりとはなにか。絵画的な
シーンだが、夜のなかの微かに流れる蛍の光跡の探索は、視覚で見るというよ
りも、感覚的な直感によるのではあるまいか。蛍の光りを通してイノチに触れる
とは、感覚のなかにその光跡を取り込むことではないのか。
数字の使い方にも注意しよう。「一つ二つなど」という表現は、一匹、二匹という
ことを意味しない。小なるものの少なさ、ほとんど無であるところがら反転して、
闇の深さを探っている表現なのだ。秋の段に現れる「三つ四つ、二つ三つ」も数
をいうのではなく、次第に少なくなっていく数によって、「寝どころへ」帰っていくカ
ラスの「あはれ」を感じさせているのである。漸減法である。それにしても「三つ四
つ、二つ三つ」とはうまい表現である。夕焼けの空が次第に、そして急速に暗くな
る時間に、黒いカラスの群れが急いで戻っていく。一斉にでもなく、一、二羽でも
ない。三、四そして二、三という小さくなりながらもまだ「群れ」である小さなかたま
りが、もうすぐ闇に消えていくという寂しさ。
『雨など降るもをかし』
ふたたびの暗転なのだが、雨が降っている。雨が闇の中でどのように見え、ど
のように聞こえるのか、現実のリアルではない。イメージのなかにどのように降
るのか、聞こえるのか。微かな音、かすかな反射による光りの受感。蛍や雨も
「をかし」と、こころを打たれているのであろうが、彼女が見ているのは雨の奥
にある夜の暗色ではなかったか。
月や蛍、雨による微小な「色付け」によって現れるのは、夏の夜の暗さへの愛
好である。この時代の夜がどのようなものかは、容易に推測はできないが、夜
は現在私たちが触れている夜ほど乾いてはいなかっただろう。
この夜は、さまざまな情感をいまよりは直截的に含みこんでいたのだろう。い
うまでもなく、月も蛍も同様である。いま私たちが見ている月は、平安の夜から
読まれ、語られてきた月である。とはいえ長年月のあいだにずいぶんと乾いて
きてしまっているのも確かだろう。私たちが『枕草子』のなかに見ている月が半
ば郷愁に満ちてしまうのは致し方あるまい。
「をかし」にしろrあはれ」にしろ、私たちの感受性のなかではかなり乾いてしま
っている。いまはもう「字義」のなかでイメージするしかないのかもしれない。私
たちは「夜」をなくして久しいのである。いわんや「雨」をや。
3.秋 『秋は夕暮』
春の朝日の「紫だちたる」赤紫色に対応して、秋の夕暮れは、夕日の赤色から
濃紺の青そして日入り果てた後の群青色へと変化していく。春との対応で言え
ば、「白くなり行く山ぎは」は遠方にあるが、秋は「夕日のさして山の端いと近こ
うなりたるに」である。遠近のなかに山を見ている。明るくなる遠方の山ぎはと、
夕日がさして手前の暗くなっている山肌、稜線が赤く映えている山。山ぎわ、山
の端の光りの一瞬の劇。春の暗から明への赤、秋の明から暗への赤という対
応である。
『鴉の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり』
夕景のもの寂しさ、暗くなる前に『寝どころへ』。寒くなる夕方と温かい寝どころの
対比。寝どころの温かさは、先に述べた『三つ四つ、二つ三つなど』のグループ
化に繋がっている。寒暖の描写である。数の減数による「寂しさ」の表現は〈温〉
の気持ちを寝どころへと飛びいそぐ気持ちを促している。しかし彼女の視点はあ
くまでも夕景の寂しさにあるのだろう。「寝どころ」も、「飛びいそぐ」も、夕日の落
ちていく情景の寂しさ、寒さをきわだたせているのである。「あはれなり」の感動
はここにある。
『まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし』
鴉が小さな点となって消失した後、雁の「つらねたる」が「いと小さく見ゆる」がつ
づく。カラスのグループと雁の集団、彼女の視線はカラス、雁にあるのではない。
群れのカタチと群れることにある。「つらねたる」が「いと小さく見ゆる」の巧みさ。
鴉の消えて行く残像の中に、雁の小さな、つまりかなり遠方の点のつらなりを配
置する。これは「あはれ」ではなく、「をかし」である。
中景と遠景の空間の見せ方にも注意したい。前景の山、中景の鴉、遠景の雁。
この並び方は文章のイメージである。鴉、雁、山というような事実のイメージで読
んではつまらないだろう。小さなものへの愛好にも注意か。日本人の心的遺伝子
(ミーム)なのだろう。後述。
『日入り果てて、風の音,虫の音など、はた言うべきにあらず』
ふたたび幕が下りる。まだ闇はやって来ない。闇の降りてくる予兆のように、擦れ
る音が聞こえてくる。風の音、虫の音。もうひとつわざわざ書かない草草がある。
風の音とは言うまでもなく、草擦れの音であり、虫の音がすだかれるのは草草の
なかであろう。しかし聴覚を研ぎ澄ますのには、草のイメージは後景にあったほう
がより効果的なのだろう。前半の視覚イメージから一転、後半の聴覚イメージヘ
の転換がはかられる。鳥たちの遠景、空を見上げていた視線は、近景の足元、
虫たちの方へ下りてくる。
空と地を繋いでいく風。無駄のない描写である。二つのものの対比が、時の経過
のなかでなめらかに繋がっている。対比を相違の持つ飛躍によって表すのではな
い。対立ではないのだ。すべてが大きな世界のなかに相応の大きさと位置で繋が
っている。この〈世界〉は、自然と人間を分断しない。人間のモノガタリの中に自然
を歪曲しない。人と自然はひとつのく世界〉なのであり、これを外から見る批評的
な眼はない。私たちがこの書物にいくたびも戻ってくるのはこのく世界〉の一体感
への親近の故なのかもしれない。
4.冬 『冬はつとめて』
夏の夜との対比なのか、冬の日の出の光りと寒冷。冬の早朝の刻の寒冷がいい
というのはどういうことか。この段の最後、『白き灰がちになりてわろし』がヒントに
なりそうである。冬の段は彼女の顔が見える段である。春、夏、秋と目前の景を見
ていた眼が、景から人の方へと動いていく。
冬の厳しさ、美しさの中に彼女が見ているのはなにか。雪、霜の白さと冷たさ。
あるいは炭の黒と火の赤。鮮やかな白、黒、赤の出番である。明晰であること、あ
いまいな濁りを拒むこと。「ゆるく、ぬるび」、「白き灰がちになりて」わろしなのであ
る。冬の景物のことではない。おそらく「炭」を持て回廊を渡る女房、その火桶にあ
たる人たちにも彼女の眼は注がれている。選択とは選ぶことであり、決断なのだ。
選択の眼は景物と人間では同じはずもあるまいが、彼女の「わろし」という断言は、
この文章の最後に置かれている。各季節の冒頭の断言は、愛好する時間帯の選
択であり、憎むべきものや、嫌悪すべきものなどはどこにも登場しないのであるが、
最後の一文だけは明確に拒絶の意志を表明している。この書物の、最初の段の、
最後のことばが「わろし」であるというのは何事かではあるだろう。たったひとつの
否定語である。もちろんなにも言わないという批評の仕方もある。たとえば、この
季節への愛好の中で昼に関する記述はない。正確に言えば冬のまさにこの「わろ
し」であるが。冬の段の家の内に初めて肉声が響くのである。彼女の意思表示であ
る。「炭」についての単なる記述ではあるまい。彼女の物の見方、人の見方の表明
なのだ。
冬というキャンバスが広がる。早朝という時間帯、雪という景物による白の強調。し
かしこの白い雪、霜は次の視点を引き出すための布置である。「寒さ」への視点、
そこから火や炭による屹立した「感情」の強調を経て、主題に入っていく。赤く、黒い
炭が白い灰がちになるという「時間経過」、「昼になりて、ぬるくゆるび」という人生の
大きな川が流れている。どんなものも「時間を経る」という定めは避けようもない。
だからこそいっそう屹立している、明晰なもの、鮮明なものが愛好される。だからこ
そせめて、文章においては冗長な言葉づかい、ぬるいことば、ゆるんでゆくことばは
避けられるべきなのだと。
家という場所へ―――遠方の春の山、夏の近景の川べり、秋の、春と対応している
遠くの山、そして鴉の「寝ぐら」を通って、冬、屋敷の庭へと視線が下りてくる。あた
り一帯に降り積もる雪、霜の野外、地面を通って、視線は家の中へ、回廊を巡って
部屋の中へ、火桶の炭火へとフォーカスされる。その「火桶の炭火」、「白き灰がち
になりてわろし」
全編、肯定のことばを折り込んでそれぞれの場面が流れていく。読む人の呼吸に応
じるかのような文の切り方である。まさに川の流れのような感覚でイメージが変転す
る。引っかかりや淀みに眼を取られることもない。この川は大河ではない、小川とい
うのでもない。読む人の意識が流れていく速さなのだ。『春はあけぼの』から『わろし』
まで、あえていうならば和歌のリズムに乗せられるようにして川を下ってくるのである。
彼女の眼の動きと、文章の流れを同位置に定着させているのは、知性は言うまでも
ないが、感性のしなやかさである。感性もことばの中を走るのであるから、「ゆるい、
ぬるい」走り方は峻拒される。感性的な反応は速い。短い文がシーンの転換とともに
反転していく。ひとところにとどまって、あらたなことばを捻り出す時間はない。決まり
きった表現は、既往のモノガタリの上を滑っているだけである。そこには感性や知性
による発見のおもしろさはない。彼女の感性は、対象を見知っているモノガタリに組み
込むことにはない。見えているものへの接近法や捉え方の発見によって開かれていく。
感じ方もまたことばのなかへ発見されていくのである。『枕草子』という書物こそは、
彼女の発見の家である。発見とはすぐれて創造的な行為である。
知的な文章の運びも、ことばの持つイメージにたよっているわけではない。情趣、情
感にもたれているのでもない。モノガタリを作る意志からも遠いのである。日常の生活、
見えている自然、書物のなかのことばなどの枠組みの上で文章がつづられていく。随
筆という形式が、彼女の感性を磨いたかどうかはわからない。漢文、漢詩を彼女が充
分に学んできたことはいうまでもない。『枕草子』が日本人の知性や感性に多大な影響
を与えたということは、この書物が発見的、創造的であった証でもあるだろう。日本人
の感受性形成への視線を、彼女の書法が導いたということを了解しよう。
3)黒の意識とはなにか
春から冬にかけて随所に現れてくる黒の問題を考えてみよう。春は「白くなりゆく山義は少し
あかりて」の前景に黒が見えていた。記述されているわけではないが、白くなり前の時間は
イメージのなかにすでに入っているだろう。この黒がしだいに後退して明るくなって来るので
ある。夏はまさに黒の舞台である。秋は夕暮れの黒への沈み込みあって夜の黒へ、冬はふ
たたび早朝であるが、日は昇っている。霜や雪のしたの地面の黒は隠されてはいるが、イメ
ージのなかでは黒い感覚が見えている。炭の黒は際立っている。嗅覚はここの問題ではな
いから外すが、夏の雨の匂いとともに対になっているものである。白と黒を合わせた灰の色
も黒の意識を残しているだろう。
黒の動きを見ると、まず春の、黒の減衰から始まって、反転、黒一一色の夏が来る。月の明
かりが入って黒の闇の全面化、さらに蛍が多く飛び交う黒の減少、一つ二つの蛍の点の消
失による黒の前景化。雨のなかの闇の黒。さらに付け加えるなら、空を飛んで行く黒もある。
夏の蛍、秋の鴉、蛍の光りは黒の体表のなかに見えるのであり、鴉の黒は夕闇のなかに紛
れているのである。雁は黒ではないが、夕景の中に『いと小さく見ゆる』のであれば黒い連な
りといってもいいだろう。
黒への意識がどういうものなのかは詳らかにはし得ないが、彼女のこころの底部に巣くって
いる倫理的な色なのかもしれない。第一段のなかでの夏の黒と冬の白、そして炭の黒は夏
冬の単色画のなかでも際立っている。作者の批評意識が黒への嗜好を呼び寄せているのか
もしれない。全編の構成のなかを川の流れのように黒がうねっている。
4)色とともに経過する時間
経過とはこの『枕草子』のなかでは変化そのものである。作者ばかりでなく、平安朝の貴族
たちは目前の景の微かな変化、ちょっとした微細な動きに自分たちを包んでいる「世界」を
発見していたのかもしれない。四季のいつとはなしの移ろいこそは、感受性を刺激し育てた
のだろう。それはまた自然を対照的に捕らえるというより、みずからもその中にあって自然
とともに、自然の時間経過に沿って移ろうものであるという感覚を育んでいたのだろう。これ
は平安期に始まったものではあるまい。縄文人もまた自然の生々流転と人間のそれを弁別
することなく、同じものだとして変化を感受していたのではないのか。メ、、ハナ、ハ、ミ(ミ)を
漢字に直してみるとわかるが、二つの系列に分岐する。目、鼻、歯、耳の顔の部位の系列と
、芽、花、葉、実という植物の系列に分けられる。このふたつへの分岐は、言うまでもなく漢
字伝来以来のものだろう。縄文人に戻せば、メによって世界が開かれ、ハナによって世界は
呼び込まれ、ハによって育ち、ミヘと熟れていったのだろう。自然や世界ということばは近世
以降の概念だろうが、自分たちが目の前の世界や自然に触れて、包まれて同じ時間を経な
がら生きているという感覚は縄文時代から現代にいたるまで連綿として続いているのではな
いか。
日本人にとって、自然は切り取られた一瞬の写真ではない。静止した写真の一瞬の中にさ
え、動くものを、過ぎ行く時間を読み込んでしまうのである。写真を眺めている私たちもまた
その写真のイメージとともに過ぎて行くものだと感受しているからではあるまいか。私たちの
視線は目の前の景と分離し得ないのである。視線と対象と距離によってものを見るのではな
い。視線の成り立ちは、物理的でも、生理的でもない。ものを見るということのなかに(外とい
っても同じことだが)見え方が組み込まれているのである。見え方を通して見ているのである。
カメラのレンズを通すときでも同様なのである。私たちの眼は、目の前のものとともに生まれ、
目の前のものとともに時をかいくぐって、目の前のものの死とともに滅んでいくのである。
そのような眼なのである。たとえ近代の理知によって他我を分離、対象化したとしても私たち
の視線は、対象とともに火に包まれてしまうのである。