あちこちでアキアカネが飛んでいる。
シオカラもムギワラもみなくなった。 そういえば、モンシロチョーも一回みただけである。 スズメも激減とか。 太陽の異変なのか?それとも人間の異変なのか? 一時間に103ミリの雨ってどういう風なのか。 被害地の報送ならば、橋が流れた河のスゴサと同時に103ミリの雨の中に閉じ込められた恐怖も伝えたらどうだ。雨のヒガイの様子をオオサワギで伝えるのはもいい。 雨の中の「怖さ」をカメラはなぜとらえないのだ? 大雨。体育館に避難する人たちの顔、手足、動き。
着の身着のままの「ふだん」着の人々。 あーそうだ、日本人はこんな風なのだ。 TVや雑誌に映っている人は日本人を抜けてしまった人たちなのだ。顔かたちも動きもいうところの「アカぬけ」してしまっているのだ。マイアサ鏡面に「顔」を写してせっせと日本人の顔を落としていく人たち。いったい、私たちとは「そもナニモノ?」なのか。 体育館にヒナンする人々の<素>。 そうか裕福な人たちは、別の所に逃げるのか。 どこにも逃げようもない人たちが公共シセツにやってくるのか。 東北の人たちを日本の「公」はどう救ってきたのか。 公の機関は「日本人」をどう扱っているのか? 公とはいったいぜんたい何なのだ? 役人、官僚、政治家(屋のまちがいか)は、いつから公を降りてしまったのか? プロレス「四方固め」、柔道のそれではない。
もっともこのプロレス、ルールは無い。テーマはひとつ。「もっと」。 なんのことだかわからないネェ。 making money game のことです。 政治経済そして文化(?)も、人々をがっちりと四方固めなのです。 world system、たとえば国連やIMFその他、中立性も国際性もある。 だがとどのつまりは「誰のためになるのか?」といえば、彼らが、その組織が顔を向けているのはl99%の人々へではない。 確かにモノスゴイことになっている。 だがまだ希望はある。いろいろな分野の点を結んでいくとあるひとつの大きな顔が浮かんでくる。あの「リバイアサン」。 (バアサンではないぞ。) 『政府は必ず嘘をつく』の読後。 未来を生きる人々のために ぜひ二読、三読を。 撮影監督が 『シルビィアのいる町で』 の監督。
ラストのクレジットで「あッ」。 原住民の末裔なのか、日本人によく似ている。(アイヌの人と現在のペルー原住民の遺伝子の違いは一つ、つまり兄弟姉妹だという文を読んだことがある。) ヨーロッパとアメリカが今もなお、南米に深く刺さっている。ヨーロッパのピアノの楽曲と、ペルー人の「悲しみのうた」がミルクなのだという現実。音楽家よ、ピアニストよ、自分たちのイマの出自、タタズマイを振り返ってみたらいい。(ムムム) 世界中から賞賛された理由は、現在の世界が解決不可能な文明の混在、その貧困の中にしか<植物>は育たないというメッセージの故。 うぬ。ゴチャゴチャやネェ。もっとていねいに書くべきか。後日、『ムーヴィ・ムーヴィ』への宿題です。 ついにと言うべきか、やっとと言うべきか、歩主対革新という枠組みが費えた。
保保になったわけではない。保守はもっともっと全力的なものだ。 「鏡の国のアリス」を引用する。アリスとハートの女王がゴールまで全力で走る。アリスが言う。「あれ、ここってスタートしたところじゃないの?」 「鏡の国では全力で走ってスタートを「保守」できるのです。」とハートの女王。 現在置(地)がどこにいるのかもわからない世界の中をクラゲのように(アシカビのようにか)漂っているクニにあって、どんな定点観測船も流されるのだ。 スタート地点も定かではないが、全速力でソコへ戻ろうともしないクニ、自らのクニの起源、スタートさえ、湿気てあいまいなまま漂っているクニ、問うべきは、現在の不都合ばかりではない。起源の秩序づけから問うべきではないか。 このクニの政治もまたマイナスの世界なのだから零地点へ、スタートへ、1から始めるしかないだろう。「不思議の国のクラゲ」、まっすぐ前を見ることが出来るかどうか、まだ走る気力、体力があるかどうか。希望と未来が分離して久しいが、まだまだ「おマツり」は続く。政り=祭りの祭政一致ではなかったか、「王政復古の大号令」から明治の「維新」は始まった。大きな政りごとをする人、太政官の登場?(橋下慎太郎君ではないぞ) NHKという会社、公共放送という盾。
ここには何でも揃っているのに肝心なものがない。 喜怒哀楽は人間の感情の総称、さてこの会社には何がないのか? 怒りがないのだ。つまりは哀しみの情が欠けているのだ。 怒りの表現や哀しみの表現はある。だが作為された怒りの表現にアクチュアリティは不足する。大仰な身振り手振りが何を欠落させているかは、政治家や・・・・・の「正論」への執ような拘泥を見れば一目瞭然である。どうだろう、今このクニを覆っている怒りをこの公共放送は掬い取っているだろうか?この会社は、怒り抜き、アルコール抜きのノンアルコールテイストなのだ。 公共とはそも何?この会社はどこを見ている?目線の先には誰がいる?もういいかげん、正義の仮面は外したらいい。民法?映らないよ。 (オマケついでに、レーベンブロイ・ノンアルコールビア 1本199円、ネット通販は高すぎだろう。アサヒさん。) キーワードは0ゼロ、ゼロコーク、ノンアルコール ゼロ%、飲み物ばかりか日本中が"ゼロ"気分。シリアスな事件も事故もみんな零へ。政治も経済もゼロへ。
ウーン、「忘却とは忘れ去ることなり」(菊田一夫) ゼロをかける。すべてゼロ。この魔法がこの国の全域をおおっている。 TVも学校もゼロ。なんか楽しくなってきたね。 (ことのついでだ、借金もゼロってな訳にはいかないか。平成の徳政令?) |
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