4月初旬から中旬へかけ5回の葬式へ参列。
記憶の底に降りてくるのは、儀式の静けさである。 どのくらい深い沈黙が醸されてくるのか。 涙や嗚咽の下に降りてくる黙(もだ)しているモノ。 この沈黙に触れたければ、故人への追慕も会葬者であることも放摘しなければなるまい。 死人(シビト)は草と草の間にすでに放摘されているのだ。 タマシイの鎮まっていくトコロに耳を傾けよ。 (だが一度も聞こえた験しがない。騒々しいだけのワタシよ!)
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ここ2,3年『桜』撮りに行けない。
しかしこの季節になるとココロがかり立てられて、芭蕉翁の旅へ焦がれる気持ちになる。 「そぞろ神のものに憑きて・・・」 しかしなぜ桜なのか。 縄文弥生の野やハタケに野木として咲いていたといふ。 そのトキの風がイマも桜を巡って吹いていくのだろうか。 桜の山に居るカミガミ(遠い祖の人々)に会いに行くような気持ちなのだ。 死んだ人や死のイメージがついてくるのは、それらのカミガミのオモカゲが春になると浮き立ってくるからでもあろうか。 そうか、〈死の匂い、香り〉の様なかそけきモノへの臭覚もここから発達したのかもしれないな。 ことばは、少なくとも人にとって〈本質的〉に関わってくることばは、
意味内容を理解し感(動)じるだけでは不足なのだ。 いや理解も感動も許さないことばが本質的というべきだろう。 これらのことばは、生死のカタチを有無を言わせずに強要する。 めったやたらに出合ってはならない言葉なのだ。 本質的なことばをやり過ごすことによって人は生きのびていると言ったらいいか。 だから今日も便器にすわって本を読んでいる。 イメージは、広げるのではない。
外へ次々と展開する像は拡散するだけである。 一見ハナヤカニ見えるがそれはハナビの美である。 イメージはどんどん内圧をかけて閉じ込めていくのだ。 圧に耐え切れなくなったトキ、イメージは破裂し、新たな〈像〉へ結像するかもしれない。 だからイマは、オープンに広がったハナビの説明にケンメイになってはいけないのだ。 ただ見ていればいいのだ。 『救いは、連続的な破局の中の小さな飛躍にかかっている。』
だからイマは、身をかがめてスターティングポジションに腰を落とし 前方のいまだ煙っているかつてのあの幻の樹へ視線を向けていよう。 ずうっと冬中着ていたセーターを脱いだ。
首のところとひじの所が穴あいていた。 フムフム。 ニホンもクビのところが穴あいた状態だ。 ニホンを脱いでしまうという奥の手もあるぞ! どうやるかって? 自分で考えること。 モノガタリの中に閉じ込められたコトバを解放する。
モノガタリの文脈に組みこまれてひからびたコトバを 再生させるのだ。 コトバが生き返ってくるトキ 人もまた生き返るのだ。 何の話なのだって? 東日本大震災によってマイニチマイニチ TVの中をとびかっているコトバのことです。 モノガタリって何かって? それば自分で考える。 『ウェストミンスター寺院』やロンドン塔もビッグベン
その他ロンドンのストリート。 記憶の中のイギリスの歴史をくり返し モノガタるモニュメントが次々と〈光景〉化してくる。 そのし最大のショウがやってきた。 歴史はhigh+storyなのだ。 〈high〉の意味は時代相によって大きく上下しているが とにもかくにもイギリス王室のニュースは女王陛下の印がペタンと押してある。 シャーロックホームズのベーカーストリートにも女王印(もっともビクトリアさんのほうかな) |
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