今年は、「桜」も「紅葉」もなかりけり。
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」 定家 平安朝の雅(みやび)の寂しさと現今日本のさつばつとした悲嘆。 しかし「紅旗征戎はわが事にあらず」 と記した定家もまた悲惨の只中で桜や紅葉をことばの中に狩ったのだ。 イマ私たちはことばの中になにを追っているだろうか。
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ロラン・バルト 『表徴の帝国』 の「著」を高校生と読む。
ナイフ・フォークで対象を切り刻み、(分析して理解)パクッ。 はしは、そっとつまんでヤサシク(情感をこめて)パクッ。 うーん、いづれ口の中へ、そこでムシャムシャと食べられてしまう。 そうか、食べ方ではなく、食べられ方のちがいなのか。 グサッと切られるかそっとはさまれるか、どっちがいいというはなしなのか。 先日の新聞記事。 「死刑囚の「殺し方」はどれがいい?」というもの。 ウーンやはり殺される方には、好みも選択肢もないよな。 そういえば、R・バルトは、街中で電車に引かれて死んだんだったかな。 死はいつだって不条理。 自己をふりかえってみるもの、第一は鏡。
鏡の中の自分の顔の観察。 世間へ出て行く顔、老いているヒフ、生気を欠いた眼など。 少しがっかりして、「まぁしかたないか」。 次は向き合っている人の中に自分がどう映っているのかの観察。 フムフム、そうなのかナァ。 <ソウジャナインダケドナァ。とかなんとか。> さて、この国には、ふりかえってみる<鏡>はどこにある? 新聞?(TVは論外)雑誌?人々?世論? ウーヌ、どうだろうね。 公(オオヤケ)という観念も公的空間(広場)も<私>に浸食されていないか? もしそうだとすれば<私>もまた死につつあるのだ。 その先にはなにが見える? 『殺人の追憶』 ボン・ジュノ 韓国ムーヴィ。
同じ殺人でも、こちらは犯人はでてこない。 ここがこの映画のオモシロイ(スゴイ?)ところ。 レイプ殺人の犯人追跡なのだが、容疑者と刑事のドタバタ劇なのだ。 このドタバタのドラマと映像の質はシリアスである。 空、雲、街並、家並、家の中、工場、警察所、学校、便所、 ここにあらわれたこの国の<リアル>の中に、 なぜ犯人があらわれてこないのかの理由がある。 ラストシーンの晴れた空、曇っていく空。圧巻。 「漢口の怪物」(?)もこの監督だったかな。 日本のTVをにぎわしている韓国のドラマは、 どうもNHK的な古いモノガタリの反復にみえてしまう。 つまり<現実>がないのだ。 『トゥルー ロマンティック』 DVD トニー・スコット。
とにかく「殺人」ムーヴィ。 とは言っても、酷い感じでも、乾いた感じでもない。 <オモシロイ>という感じである。 ユーモア、遊びというのでもない。 あえていえば「ゲーム」感覚。 これが「リアル」なのだろうか。 「本当の殺人は・・・」という言い方は通用しないのだ。 「殺人」もまた見知ったモノガタリの<複写>の方にリアル感があるのだろうか。 みんなが待っている、知っている、そうであって欲しい<殺人>が映画的な欲求にうよってドハデに工作される。 <私>と他人との「きょり感」が殺人ムーヴィのハデな装飾をさらに拡げているのだろう。 「やばい」!」→困った?or すごい? 政治、つまりは、おまつりごとなのである。
お祭りは毎日ずるずるとやっていたのでは祭りにならない。 スピード。結果や結論が全てではないが、 必要なトキに、そのトキに十分間に合わねばム意味なのだ。 いろいろな都合や言い訳を免責と勘違いしている政治家。 行動力が不足? いいや違う、当初からアクションの向きが違っているのだ。 村人がおまつりで何を期待しているのかを考えないと、 ハレとケが等号化して「革命」が起こらないともかぎらないぞ。 ワカモノとバカモノは、首を長くして「待っている」のだ。 追記:もうみんなマイニチの小さなマツリに疲れきっている。 このマツリには特になにも新奇なものはない。 すでに日常も解体しているらしい。 |
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