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『灼熱の魂』
ドゥニ・ビルヌーヴ監督
どこからはじめるべきだろう。いくつものキーワードがからみ合っている。まずはそれらのことばの森を開いていこうか。とりあえず歩いていく道を探そう。
この映画のアーケイック(古代的というよりも古典的な)なところ。人物たちがギリシャ神話の風貌をまとっている。双子の男の子と女の子はイマ風ではあるが、舞台といい、各シーンの背景、街並みも家並も、砂漠地帯の岩山や道も、いきなりギリシャ、ローマの時代のそれに出くわすかのような様子である。妻であり、母である主人公のいきなりの死への表情は、近代の個人の顔が持つ表情を殺いだギリシャの彫像を見るかのようである。
古代的というより、古典的と述べたのは、いうまでもなくこの映画のストーリーが『オイディプス』神話を、あちこちへ逸れながらも、反復しているからである。
神託、聖書の箴言にも通じてしまうようなことばがふんだんに会話の中に現れる。自分たちの意志を伝えるコミュニケートのことばではなく、ディスコミュニケートこそが、この映画の主要なテーマの一つなのだろう。和解へ向けての意志の確認や承認へではなく、本質的な断絶によって進むモノガタリなのだ。個々の人間が共通の価値へ協同し、和解するようなコミュニティを生きてはいない。だから発せられることばは人間の関係の網をくぐって、横のつながりへではなく、人間の存在にまっすぐ垂直的に落ちてくる。現在へ至る歴史的時間が静止しているかのようなのだ。モノガタリの進展がミステリアスなのは、観客に対して方法的に神秘化しているからではあるまい。すでに人の存在の在り方がミステリアスなのだ。観客の目や、モノガタリを意識した迎合的な媚びはない。先回って言っておけば、この映画の人物に近代的な心理の展開や、人間の個人的な輪郭を当てはめてはなるまい。後半カナダが舞台になって初めて近代が広がってくる。中東、レバノンでは、ストーリー的には脇役である祖母であれ、公証人であれ、かれらもまた古代人のような役割を演じているのだ。
神、運命、奇蹟というような古代、中世の世界の術語を近代に引き戻してみる。神の存在の問題は、無神論者、近代のひとであるディドロに対して「数学的な式eiπ=0、ゆえに神は存在する」と盲目のオイラーがその存在を断言するというエピソードも挟まれる。
主役の双子のひとりジャンヌは高等数学の研究者である。後半に衝撃的な等号化、1+1=1という場面も出てくる。数学の世界に触れて神が言及されることはあるが、イマ、この映画のなかで神自体において単独にその存在が問われることはない。神の存在は前提であり宗教、宗派というモノガタリのなかに組み込まれて、互いを絶滅させるような内戦がくりかえされている。宗教は政治的な権力となり、神の怒り(ヒューリー)の具現、神の代理戦争となって具現している。世俗的な神というよりは、宗教が神の場所を奪っているのだ。
かつて運命が紡いだモノガタリは、イマやモノガタリに語られる対象でしかない。ありえないような展開、しかしそうであるしかないような出来事は奇蹟としてモノガタリに承認される。奇蹟の物語ではなく、モノガタリが奇蹟を含みこんでいる。近代においては奇蹟というモノガタリは伝播しない。このモノガタリはまず初めに家族のモノガタリ、男と女のモノガタリ、結婚のモノガタリとしてはじまる。中東の砂漠地帯、岩山がいたるところに散在している南部の故郷へ、ナワルとその夫が戻ってくる。岩山に腰をかけて、侵入者
を見張っているのだろうか、ナワルの兄たちがいる。かれらは『自分たちの故郷に帰れ』といいながら、若い妻ナワルの夫をいきなり射殺してしまう。たぶん異教徒なのだ。異教徒同士の結婚なのだろう。妹ナワルも家族の恥だとして殺されそうになるところを祖母の叫びによって救われる。異教徒同士の結婚は奇蹟、ありえないことなのだ。しかしナワルのおなかにはすでに子どもが育っている。このこどもはナワルが望んだような異教徒同士を結ぶ奇蹟にはならない。だが、足の後ろ、かかとに三つの点を入れ墨されるこの子どもは、ありえない奇蹟へむかって歩きだす。歩くこと、人生の、予定された過酷な旅をはじめる。父の死から母の墓へと歩いていくのだ。このこども、いくつも名前を変えていくワハブのモノガタリはまだ先のことである。かれの誕生のときを見てみよう。ひだりのドアの入口から差すひかり、しかし部屋の中はほとんど暗闇である。そのなかに血まみれになって生まれてくる赤ん坊。妊娠を知ったナワルの祖母のせりふ「この世からひかりが消えた。」、「いっそ殺してしまいたい。」、なぜかナワルには父も母もいない。この父母の不在、空位は語られないままである。(こののちナワルのふたりの双生児、シモンとジャンヌの父と母を探す旅がはじまる。)祖母のこの強い、予言者的なことばがこれからのナワルおよびワハブを導いていく。へその緒を切って引き離されるときのナワルのことば、「かならずおまえを迎えに行くからね。」この別の道を与えられた息子ワハブヘの約束がこの映画の、そしてモノガタリを進行させていく。
白と黒、ひかりと暗闇。画面はこのふたつに分断されながら進行する。中東の砂漠においてはつねに強いひかりである。黒もまた強い色である。この色の対比は神話なのだ。水と砂漠、プールと監獄、透明なものと見えないものの対立が映画のいたるところを覆っている。明るい壁の外と暗い壁の内、砂漠の中を延々と続く曲がりくねった白い道、検問所の橋、それらの映像による中東の地域の現在が、古代からそうであったかのように目の前に現れる。人々の集まっている場所、大きな都市も同じような家々がレンガ壁によって山裾に密集している。近代の施設や公共の場所のコンクリート壁。その都市の頂点にあるのが大学の建物であり、砂漠にあるのが監獄の収容所の建物である。大学と監獄が自由を巡っての対立の構図なのはいうまでもない。大学が閉鎖され、内戦の勃発によって600人収容の監獄が砂漠に鉄条網を這わせる。叔父に助けられて大学の新聞部にいたナワルの、南への、息子ワハブヘの旅がここからはじまる。すでに夫の死、大学の死を抱えた彼女の旅は、中東を逃げ出す難民の群れとは逆の行程になる。
まがりくねった砂漠の道を走るバス。ムスリムの女たちを真似てスカーフを巻いて顔を隠して乗り込むナワル、ムスリムの人たちのなかへ。だがバスを止めたキリスト者による皆殺しのなかで、首からかけている十字架を掲げ、ムスリムではない、キリスト者である事を告げ、かろうじて生命をうる。幼女を自分の娘なのだとして助けようとするが、幼女は泣き叫びながらバスのなかで殺された母親の方へ駆けていく。彼女もまた頭を撃ち抜れて砂漠に倒れる。このシーンは息子ワハブの運命へと重なっていく。南部のムスリムの故郷の村、追放された村へ、同胞の村へ戻るナワル。敵の敵は味方、だがその証拠は?と問われ、キリスト教派の社会民族党(?)の党首のこどものフランス語の家庭教師として潜入し、党首を射殺する。ここまでのナワルの人生が表側にあるとすれば、この後のナワルのモノガタリは裏側に位置するだろうか。象徴的に語られる遺言の一節がある。『棺桶に入れずに裸で、世の中に背を向けてうつ伏せに埋めよ、墓石はいらない、名は刻まずに』この奇妙な、遺言から双子のこどもの旅がはじまる。「約束を守らぬものに名はない、約束が果たされたら、ふつうに埋葬せよ」、生前、この双子のこどもたちはナワルにとって喉に刺さった抜けないトゲだった。双子のこどもたちにとってこの旅は、母を探し、父を探す旅となる。ジャンヌは母の跡をカナダから砂漠地帯へと戻っていく。母の表の場所の終端、裏の場所の始まりである監獄まで、その後シモンの父への旅が中東の砂漠からカナダヘと続く。こどもたちの発見の旅、兄と父への旅は母の身体や精神に刺さったトゲが自分たちそのものであるという驚愕の事実へ突き進む。しかしこの映画は双子のこどものモノガタリではない。ここにあるのは〈探す旅〉なのだ。なにを?母が息子を、息子が母を探す。弟と妹が兄を、そして双子が母を、父を探す旅なのだ。探すことがすでに運命である旅とはなにか?暴かれるモノガタリ、人間の思惑を越えているこの幾重にも錯綜する旅は、人間は見えない運命を歩かざるを得ないということなのか。告げられない真実、繋がらない事実のなかを母を知らない息子が歩く。息子を知らない母が歩く。
ワハブの呪われた、次々と名前を変えていく旅を追ってみよう。生誕時の悲劇はすでに述べた。父を失い、母から切り離されて孤児院へ捨てられる赤子、さらに孤児院が襲われて敵対する宗派に拉致され、少年兵として訓練される。かつての宗派の人たちを殺すテロリスト、スナイパーとなっていく。さらに敵方に囚われて拷問者となって監獄へやってくる。この男はどこにも定在しない、一つの世界がないのだ。いつも殺し合いを問にしてふたつに分裂しているのだ。加害者と被害者がいつも入れ代わってしまう場所にいるのだ。母を求める旅が逃れられない運命になる。監獄での不幸な出会いは表面には出てこない運命であり、プールの水面から発見される出会いもまたさらに不幸な運命となる。半身でしか出会えない、それとわからない盲目の世界にいるのだ。父を殺されたこと、母を殺してしまうこと、このこどもとはいったいどこからやってきたのか。王族ではない、この世界、戦争に明け暮れている日常からやってきたのだ。だから死とともに旅が続けられるのだ。かれの冷酷非情、誰でも殺してしまうこころの底にひとつの希求がある。「殉教者にしてくれ、そうすれば国中に張られた写真を母が見つけてくれるだろうから」だがこの希求を受け止める人も組織も、国もない。狙撃手とは、拷問人とは孤独な人のことではない。胸が張り裂けてしまっている人のことなのだ。ワハブ、サルワン・マルワン、ニハド・マルワン、ニハド・ハルマニ。名前を変えねばならないとは、世界がその名前を裏切ることなのだ。犯罪者が追跡者から身を守ることと同列のことではない。世界が背を向けるのだ。
細い道をたどる。広大な砂漠の中を曲がりくねって続いていく乾いた道。産道からずっと繋がっている暗い道、ホテルの通廊、監獄の通路、キャンプの路地。そこを通ることは灼熱に焼かれることなのだ。(まちがっても愛などというしろものではあるまい。)その道を双子のジャンヌとシモンが歩いていく。なぜ双子なのか、男と女、対等な位置、一定の距離をはさんで向き合える関係、生きていくには母や父の異常な、不幸な位置から離れることが必要だったのだろう。離れるために、父や母、そして兄の旅をみること、知ることが必要だったのだ。この細くて長い曲がりくねった過酷な事実の道を歩くことが必須だったのだろう。
水、水に濡れているプールには砂漠の土にまつわる因縁や憎悪はない。いろいろな人種がおなじ水に触れて自由に泳いでいる。自分の身体、精神は水の来歴に支配されない。ファーストシーン、カナダのプールで泳ぐジャンヌの黒い水着、黒髪の美しさ。水の透き通る美しさの中の黒。後半、兄と父がわかった衝撃、つまり母ナワルの息子ワハブへ至る悲惨な旅を知ったふたり。シャムセディンの町の夜のプールで、水の中に沈んで、夢中で体中のものを振り落とし、すべての忌まわしいものを忘れ去ろうとするかのような泳ぎをするふたり。水の浄化。新たな生へ。この水の美しさ、包みこむ透明感は母体の子宮から続いているもう一つの水の道か。プール以外にまだ泳げる場所がある。大学、学問、知識は人種や男女を問わない。(学問、知識の中にもその外にも貧富による差別は歴然として存在する。)しかし絶対的に自由であるのではない。中東の大学は政治的、宗教的に閉鎖、解体が進行する。ナワルの大学も閉鎖され、新聞部も解体される。土から来るものはその歴史によって、よかれ悪しかれ支配される。宗教、村、政治的団体はその一体感をどんどん増感させてそれ以外のものを排除する。善悪のことではない。そのような排他性によって自立するしくみなのだ。内的共有と外的占有の円還構造こそが一体感を強めるのだろう。戦争を煽った指導者たちのあの仰々しいがなりごえは、いつの時代でもどこの国でも響いている。
水と土の混じるところ、ねじれている関係があらわになる。1+1=1となる関係。兄が父である関係に気づいて、旅を続けてきた双子は一瞬にして弟妹から娘、息子に変じてしまう。数学的な立式もまた人間の関係によって捩じれてしまうヒューと激しい音を立てて息を吸い込むジャンヌ。クァファリアット監獄。レイプされる女、囚人番号72は娼婦である。暴力と憎悪のなかに孕まれる双子、異教徒同士の愛の結婚によって生まれたワハブによるレイプ、この生誕は愛であるはずだった。これは憎悪と殺人によって生きてきたワハブによる愛への復讐劇なのか、意識の下での愛の反転なのか。当然のことながらこのこどもたちは生まれ落ちてすぐに河に流される運命である。オイディプスの神話同様、夜の河へではなく、ナースとなる監獄の助産婦によって救済され、ナワルとともにカナダへ出国する双子。
橋のたもとで、「きみのこどもはわれわれのこども、いつかきみを助けることがあるだろう。」という、カナダヘの亡命を準備してくれるリーダーに対してナワル、「そんなことは望めない。」喉に刺さったトゲとなるこどもたち。母の墓まで死とともに歩いていくワハブの旅。母の死から双子の旅がはじまる。母へ、父へ歩いていく双子のこどもたち。おそらく古典的な運命には救済はないのだろう。宗教が救い?とんでもない、この運命を導いたのは宗教戦争なのだ。しかしいまだ「約束」は果たされない。あたかも神との契約と
なる母の息子探しの旅は、カナダのプールヘと続いていく。プールでの奇蹟的な出会い、水の中にいる母と、プールサイドに立っている濡れていない息子、足首に三つの点のタトゥを入れた息子の発見。だが息子、拷問人、ニハド・マルワンはわからない。母の旅の終わりに待っていたのは、こどもたちの旅の始まり。悲劇への旅がはじまる。母の遺言、2通の手紙による兄探しと父探し。いるはずもない父と兄を探せ、そののちこの2通の手紙を渡せと。
少し整理しておこう。ナワルとその息子ワハブ、カナダで育った双子ジャンヌとシモン。それぞれの旅がある。暴力と死と、別離と盲目の運命が交差する。場所は南部の村デルオム、大学のある都市デレッサ?ダレシュ?、監獄のある村クファリアット。そしてカナダの都市。
ナワル(妻、孫、母)の旅がある。大きな大学のある都市から戻って故郷の村で出産しようとするが、ともにやってきた夫が射殺される。祖母の家で出産、息子は孤児院へ捨てられる。彼女は都市へ戻り叔父の助けで大学へ、新聞部で論説文を書く。軍隊によって町は制圧され大学は封鎖される。戦闘の激しい南部へ、息子ワハブを探す旅へ出る。村は戦争状態であり、村の悲惨な現実から宗旨が同じ社会民族党の党首射殺へ、後監獄へ。15年の収容の後カナダヘ、約20年後プールで息子ワハブを見いだす。遺言を公証人に託して死去。彼女の旅は事実の旅。
双子のひとりジャンヌの旅。カナダから1枚の写真と十字架を持って母の出た大学へ、その後母の故郷の村へ、村を追われるようにして写真の撮られた監獄へ。ダレシュに戻りシモンへ旅を続けさせる。最後はカナダへ戻り、母の遺言の手紙を開封。シモンの旅はジャンヌから引き継がれ、カナダ、ダレシュ、シャムセディンのキャンプ、そしてダレシュ、カナダ。かれらの旅は記録と記憶の旅。
ワハブの旅。母の村での出産、すぐに孤児院へ、キリスト教の一派に襲撃されて拉致される。襲った軍隊の少年兵となり、ムスリムの町や村を襲撃、狙撃兵。ふたたびムスリムの軍隊に捕らえられ洗脳されて「凄腕の拷問人」となってクファリアットの監獄へ。後に停戦後(?)、カナダへ移住。名前の変遷。ワハブ・マルワン、…マルワン、ニハド・マルワン、ニハド・ハルマニ。かれの旅も事実。事実とはナワルとワハブにとって運命の旅のことである。(地名、人名は筆者の記憶、確かではない。)
ナワルの旅からはじめる。キーワードは監獄と十字架。殺し合いをやっているふたつの宗派、キリスト教とムスリムの男女の結婚。身ごもったこども。ファーストシーンの荒野で夫が射殺され、ナワルは祖母の庇護の下ワハブを出産、ワハブはムスリムの孤児院へ捨てられる。名前は改称、母となったナワルは叔父の助けで大学へ。すでにこのモノガタリの多くの主題系が出てくる。宗教、戦争、荒野、死、村、都市、愛、憎しみ、別れ、名前、孤児、父、母、出産、血、涙、光りと闇、こどもの父親はだれなのか?生まれたものの旅は産んだものの旅を、産んだものは生まれたものの旅の跡を追いかける。このモノガタリにはその出会いがふたつ用意されている。ひとつはナワルとワハブの監獄での悲惨な出会い。もう一つはジャンヌとシモンの双子とワハブ(ニハド・ハルマニ)の不幸な出会い。ナワルの旅には、彼女の生きている世界の不幸と悲惨が一身に降りかかってくる。ほとんどが暗闇であり、明るいひかりは、カナダでのプールのシーンかダレシュの大学、叔父の家の食卓のシーン。このモノガタリにおいて彼女はなにを帯びているのか。十字架、受難、(神との)約束、愛と憎しみ。非常に大きなモノが課されている。彼女が生むのはキリストではない。まるでその反対の地獄を生むのだ。つまり現在を孕むのだ。孕まれた現在の地獄を歩き続けるのだ。約束を果たす、という彼女の旅はすでに個人的な、恣意的な、選択的な旅という趣を越えて、存在することの原罪をあらわにするための旅である。母が子を求める、故郷の村のために殺人をする、主義主張のために15年に渡って監獄の拷問のなかで歌を歌いつづける、さらに20年もたらされた大きな負荷(双子)を育てる。これは彼女という人間が強靱であり、選ばれた人間であるからではない。彼女の旅は、神話や古典のモノガタリを具現する旅なのだ。彼女を現代の日常に引き戻して解釈することはできないだろう。
監獄とはなにか?閉じ込める場所、なにを?主義や主張を?いやこのモノガタリにおいてこの場所はふたつの道が交差する場所、邂逅の場である。だがこの出会いは盲目のなか、さらなる悲劇の時を準備する場なのである。息子を求める愛の旅と母を求める憎悪の旅が出会う。母は憎悪を育て、息子は囚人を心身ともに粉々に砕く絶望的な快感を。ふたつの道が直交する、十字架を背負ってたどるゴルゴダの丘、荒野のなかに600人収容のクファリアットの監獄がある。レイプされる女とレイプする男の交点から憎しみの結晶である双子のジャンヌとシモンが生まれる。だれからも祝福されることのない男と女が生まれる。死を望まれているこのふたりの赤ん坊とはいったいなんなのか。夜の河に捨てられるところを監獄の女に拾われて生きることに、母とともに解放されてカナダへ逃れていくふたりはなぜ双子なのか。憎しみと愛の交接点であるこの監獄は、カナダの水へいたる中継点である。母の写真を手がかりに、このクファリアットの監獄にたどりつくジャンヌ。ジャンヌの首に下がっている十字架はかつて母ナワルがかけていたそれである。まだ旅の中途なのだ。運命はまだ半分しか発見されていない。
「歌う女」ナワルの歌とはなにか。自分を正気に保つための手段なのか。主張や主義という観念などはすぐに吹き飛んでしまっただろう。ただ歌だけが残った。誰かのための歌でもないだろう。心身の外に逃がしてやるナワルのたましい。あえていえば臨在しない神へ聴かせるかすかな信号とでも言っておこうか。しかしこのかすかは勁い。筋金入りの拷問人の日々のレイプ、「身も心も砕く」歌を歌わせなくなるまでの拷問が続く。産み落とされた双子は絶望の象徴なのか、希望への、新しい出発へのスタートなのか。しかしカナダへ移住した後の20年間、この双子は喉に刺さったトゲでしがなかった。ナワルには新しき出発はなかった。ただ息子との出会い、果たされない約束だけが宙づりになっていたのだ。しかし奇蹟は起こる。プールでの発見。足首の三つのタトゥが目の前に現れる。旅の残りの半身が姿を現してくる。ナワルはあきらかに息子ワハブを認知する。しかしそれと同時に愛は憎しみとなって分立してしまう。ワハブこそあの監獄の拷問人、双子の父親、ニハドその人であることを知る。足首にある三つの黒点、3人のこどもが旅の終わりに出会う。プールとはいったいなんなのだろう。運命を引き寄せるもの、運命を融和させるもの、いや劇的な運命を人に知らしめるものなのか。見開かれた目にたまる水、盲目の旅路の果てに嗚咽してこぼれる涙。十字架を背負った旅、生誕のときから死のときまで、十字架は身体ばかりか、こころのなかに持して生きていくということ、つまり魂の芽生えとい
うことなのか。
公証人ルベル氏。記録と事実を突き合わせ、盲目の世界に現実を引き寄せる。『手紙の開封は『約束』にしたがって勝手に開けることはできない。事実がやってくるまでことばは閉ざされる。記録と記憶の網の中を歩くしかないのだ。運命を現実に遂行する人。ルベル氏はカナダの事務所から中東へそしてカナダヘと、かつての自分の秘書ナワルの遺言を実行する。公証人、天地創造の昔から存在すべきだった、というこの仕事とはいったいなんなのか。事実を経験する人ではない、その経験を記憶する人でもない、記録を保持する人なのだ。終始、ことの推移を目撃する、遺言のことばを開陳したり、推論して先行きを示唆したりはしない。手紙を渡すひとである。双子への手紙が開陳される。沈黙は破られる。墓石は立てられ、名前は刻まれる。「あなたたちの誕生のモノガタリ、それは恐ろしい物語、あなたたちの父親の物語、それはかけがえのない愛の物語。」一枚の写真と三つの手紙が、砂漠と水、憎しみと愛、物語と神話、古代の旅と現代の旅を結ぶ。父と母の不在は、写真と手紙の旅によって満たされる。
シモンが渡す手紙、娼婦72番から兄へ。ジャンヌが渡す手紙、収容ナンバー72、あなたの母から息子へ。「あなたは愛の結晶、何があろうとあなたを愛し続ける。プールサイドのあなたは美しかった。あなたは愛の結晶、だから妹や弟が生まれたのよ。」双子のシモンとジャンヌへ渡される手紙。あなたたちのモノガタリは「息子を探す」という約束からはじまった。怒りの連鎖を絶つために、あなたたちのおかげで「約束」は果たされ、やっと子守歌を歌い、あなたたちを慰めてあげられる。
―――――いっしょにいることが何よりもたいせつ。
『扉をたたく人』 the visitor
<扉>とはなにか?
三拍子のリズムと、四拍子のリズム。
どちらかに定住していれば訪問者はいない。
どういう理由であれ、自国から他国へ越境しなければならないとき、それまで見えなかった<扉>があらわれる。
孤独な境涯から外へ出ようとすれば、当然外の世界へ向けて扉をたたかなければならない。扉は必ずしも拒続するだけのものではない。外のリズムを内に引き入れるものでもある。「ジャンベ」という打楽器はまさにそういう風にして、老教授がしがみついていたクラシック(古典)の世界、ピアノのミュージックから彼を新しい世界へ導いてくれた。
クラシックの四拍子からジャズの「ジャンベ」の三拍子のリズムへ。
感受性や知性に傾いていく聴覚イメージを、身体的な全身的なアクションの世界へ。
三角(形)と四角(形)のジャムセッションが引き出してくれた<自由>なアソシエーション。
しかし幸福な時間をとりまいている四角四面の現実がいきなり三画形、自由なリズムを封じ込める。
大学でアジアとの貿易について研究(?)する老教授には、妻の死後<世界>が脱落してしまっている。妻の想い出にすがるようにピアノを弾いている。時間は止まったままだ。大学での研究も名ばかり、「振り」をしているだけのものである。共著者の代わりに学界発表へ。自分の主張を発表するわけでもなくNYへ。NYの自宅には、シリア人の若い男とアフリカ系のセネガルから来た恋人がすでに生活している。悪徳業者にだまされたらしい。不法侵入である。老教授ウォルターが自宅へ戻ってキーをさして入ってくる。花瓶に花がさしてある。人が住んでいる。家中のドアを開けていく。バスルームのドアを開くとセネガルから不法入国者であるゼイナブという女性がバスに浸かっている。叫び声を聞きつけて恋人であるシリア出身の不法滞在者、ジャンベ奏者のタレクがとびこんでくる。当初のこの若い恋人たちは、ウォルターを不法侵入者と思って<暴力>ざたになる。不法侵入、不法滞在、暴力という「しかけ」である。「扉をたたく」、つまりドアを開ける、受け入れるか排除するかの<出会い>の瞬間である。裸の女、若い男の暴力、老人の孤独の壁、三つの輪が出会うシーンである。後に、ブレスレットがウォルターにプレゼントされるのだが、「輪」のイメージが「つながり」へ、結びつきへと回っていく。この三人の精神の立ち方を小テーブルの上に置かれた花が象徴している。ひとこと言っておこう。「美しい」のである。
扉はひらかれる。
三人の共同生活が始まる。
おずおずと、少しずつ近寄っていく三人をさらに「ジャンベ」が近づける。音、リズムがさらにかれらの<扉>をひらいていく。タレクのジャンベの練習は裸である。フリーなのだ。自分の心の深いところから<リズム>をくみだしているのだろう。ウォルターもまたジャンベをたたきだす。タレクに習って<三拍子>の世界へ、自由で開放的な、誰でも引きこんで受け入れるリズムの世界へ。
地下鉄の改札口でタレクは逮捕され、入国管理の収容所へ連行される。人々をつないでいく地下の鉄道が象徴的に分断される。ここにも改札という扉があり、国家の法が、警察が待ち受けている。逮捕の瞬間、ウォルターが叫ぶ。「彼は切符をもっている。」このときから映画は、ウォルターの心の解放とタレク他の移民者の排除が反比例するパラレルな関係になって展開する。「彼は切符を持っている」というときのキップとはなんだろうか。すべての人の心に自由に出入りできるキップなのだろう。つまり「彼は人間である。」というキップなのだ。この人間というキップを認めない法、制度とは何か、どのように成立しているのか?少し大きな主題になってしまったが、アメリカを含めたまさにグローバルな自閉化、鎖国の様相が蔓延している。経済の仕かけである資本のグローバリゼイションがその背後にぴったりと張り付いているのは言うまでもない。勝ち組というゴウマンなことばがはやっていたが、そろそろ実はみんな負け組なんだということに気がつき始めているのだろう。
映画へ戻ろう。
タレクの不在の「ホーム」へタレクの母がやってくる。
三拍子のリズムが回復する。(自由へのトリアーデ?)ゼイナヴの手作りのブレスレットが路上で売られている。このブレスレットもまたオープンに人々をつないでいく。アメリカの20年代のエリス島、自由の女神、フェリー、タクシーの相乗り等、映画のシーンは「移民」を巡って、入管収容所の刑務所化という現実によってアメリカの過去と現在を対比させる。入管収容所のタテモノの閉鎖性、面談室の仕切りによる分断、拘置所そして刑務所。強制収容、強制送還、その後の災厄、死に至るプロセス。「良き人々の魂」が消えるとき、アメリカの繁栄も建国の理念も「うすれゆく星条旗」の13本のストライプとともに消えていくだろう。アメリカによる世界の民主化、自由化とは、世界の分極化であり分解、互解の始まりだったのか。
収容所の謁見室で激昂してタレクが叫ぶ。「自由に生きて演奏したいんだ。」このセリフはアメリカが関与するあらゆる場面で発せられている。ただし、暗黙裏にだ。(当然のことだがアメリカという一国のことではない。アメリカというシカケを真似ているすべての国のはなしだ。例外はない。だから問うべきなのだ。クニとはなにか?)
タレクと母親モーナの話へ戻ろう。
「息子を探しています。」というモーナ。息子とは未来へ向けた<自由>のことである。この<自由>への希求の背景に、父親の死がある。シリアの反政府ジャーナリストであった父親は投獄されて出所後、弱った心身のまま死亡する。息子と母親は、難民となってアメリカへやってくるが、手続き上の不備も重なって不法滞在の状態のままである。
出口と入口、そしてタレクはシリアへ強制送還される。母親もまた、再びシリアから出国できないであろうことを覚悟して、息子のいるシリアへと帰っていく。エアポート、出国と入国の特別な場である<港>に大きく下がっている「星条旗」がかすんでいく。
ウォルターとタレク、そしてモーナとの新しい扉、新しいインターコースのストーリーは映画を見てもらおう。ウォルターのアジア貿易論が、「ふり」でなく、新たな展開をみせるかは、・・・・・である。
希望になるかどうかは定かではないが、ウォルターの「ホーム」で内と外を透かして見せる<窓>をみがいているモーナがいる。窓は内と外を遮断するものではなく、内と外をつないでいくのだ。プライバシーとか個の自立を言い立てる方向とは逆に<世界>をホームに、ホームを<世界>に開いていくのだ。ここの窓と収容所のつい立の仕切り。イマ、ウォルターのホームはシリア人のモーナによって透明になっていく。人間が人間と向き合い、受け入れるには何が必要なのかをこのシーンは、何気なく伝えている。そしてこのようなシーンによって成り立っているこのムーヴィもまた<静かな>、だが確固とした<意志>によって<扉>をたたいている。私たちは、「クニにつくべきか、それともヒトにつくべきか」を問われているのだ。最後にウォルターの叫びを書いておこう。
「あんないい青年を、人をこんなふうに扱っていいのか!私たちはなんて無力なんだ。」
どちらかに定住していれば訪問者はいない。
どういう理由であれ、自国から他国へ越境しなければならないとき、それまで見えなかった<扉>があらわれる。
孤独な境涯から外へ出ようとすれば、当然外の世界へ向けて扉をたたかなければならない。扉は必ずしも拒続するだけのものではない。外のリズムを内に引き入れるものでもある。「ジャンベ」という打楽器はまさにそういう風にして、老教授がしがみついていたクラシック(古典)の世界、ピアノのミュージックから彼を新しい世界へ導いてくれた。
クラシックの四拍子からジャズの「ジャンベ」の三拍子のリズムへ。
感受性や知性に傾いていく聴覚イメージを、身体的な全身的なアクションの世界へ。
三角(形)と四角(形)のジャムセッションが引き出してくれた<自由>なアソシエーション。
しかし幸福な時間をとりまいている四角四面の現実がいきなり三画形、自由なリズムを封じ込める。
大学でアジアとの貿易について研究(?)する老教授には、妻の死後<世界>が脱落してしまっている。妻の想い出にすがるようにピアノを弾いている。時間は止まったままだ。大学での研究も名ばかり、「振り」をしているだけのものである。共著者の代わりに学界発表へ。自分の主張を発表するわけでもなくNYへ。NYの自宅には、シリア人の若い男とアフリカ系のセネガルから来た恋人がすでに生活している。悪徳業者にだまされたらしい。不法侵入である。老教授ウォルターが自宅へ戻ってキーをさして入ってくる。花瓶に花がさしてある。人が住んでいる。家中のドアを開けていく。バスルームのドアを開くとセネガルから不法入国者であるゼイナブという女性がバスに浸かっている。叫び声を聞きつけて恋人であるシリア出身の不法滞在者、ジャンベ奏者のタレクがとびこんでくる。当初のこの若い恋人たちは、ウォルターを不法侵入者と思って<暴力>ざたになる。不法侵入、不法滞在、暴力という「しかけ」である。「扉をたたく」、つまりドアを開ける、受け入れるか排除するかの<出会い>の瞬間である。裸の女、若い男の暴力、老人の孤独の壁、三つの輪が出会うシーンである。後に、ブレスレットがウォルターにプレゼントされるのだが、「輪」のイメージが「つながり」へ、結びつきへと回っていく。この三人の精神の立ち方を小テーブルの上に置かれた花が象徴している。ひとこと言っておこう。「美しい」のである。
扉はひらかれる。
三人の共同生活が始まる。
おずおずと、少しずつ近寄っていく三人をさらに「ジャンベ」が近づける。音、リズムがさらにかれらの<扉>をひらいていく。タレクのジャンベの練習は裸である。フリーなのだ。自分の心の深いところから<リズム>をくみだしているのだろう。ウォルターもまたジャンベをたたきだす。タレクに習って<三拍子>の世界へ、自由で開放的な、誰でも引きこんで受け入れるリズムの世界へ。
地下鉄の改札口でタレクは逮捕され、入国管理の収容所へ連行される。人々をつないでいく地下の鉄道が象徴的に分断される。ここにも改札という扉があり、国家の法が、警察が待ち受けている。逮捕の瞬間、ウォルターが叫ぶ。「彼は切符をもっている。」このときから映画は、ウォルターの心の解放とタレク他の移民者の排除が反比例するパラレルな関係になって展開する。「彼は切符を持っている」というときのキップとはなんだろうか。すべての人の心に自由に出入りできるキップなのだろう。つまり「彼は人間である。」というキップなのだ。この人間というキップを認めない法、制度とは何か、どのように成立しているのか?少し大きな主題になってしまったが、アメリカを含めたまさにグローバルな自閉化、鎖国の様相が蔓延している。経済の仕かけである資本のグローバリゼイションがその背後にぴったりと張り付いているのは言うまでもない。勝ち組というゴウマンなことばがはやっていたが、そろそろ実はみんな負け組なんだということに気がつき始めているのだろう。
映画へ戻ろう。
タレクの不在の「ホーム」へタレクの母がやってくる。
三拍子のリズムが回復する。(自由へのトリアーデ?)ゼイナヴの手作りのブレスレットが路上で売られている。このブレスレットもまたオープンに人々をつないでいく。アメリカの20年代のエリス島、自由の女神、フェリー、タクシーの相乗り等、映画のシーンは「移民」を巡って、入管収容所の刑務所化という現実によってアメリカの過去と現在を対比させる。入管収容所のタテモノの閉鎖性、面談室の仕切りによる分断、拘置所そして刑務所。強制収容、強制送還、その後の災厄、死に至るプロセス。「良き人々の魂」が消えるとき、アメリカの繁栄も建国の理念も「うすれゆく星条旗」の13本のストライプとともに消えていくだろう。アメリカによる世界の民主化、自由化とは、世界の分極化であり分解、互解の始まりだったのか。
収容所の謁見室で激昂してタレクが叫ぶ。「自由に生きて演奏したいんだ。」このセリフはアメリカが関与するあらゆる場面で発せられている。ただし、暗黙裏にだ。(当然のことだがアメリカという一国のことではない。アメリカというシカケを真似ているすべての国のはなしだ。例外はない。だから問うべきなのだ。クニとはなにか?)
タレクと母親モーナの話へ戻ろう。
「息子を探しています。」というモーナ。息子とは未来へ向けた<自由>のことである。この<自由>への希求の背景に、父親の死がある。シリアの反政府ジャーナリストであった父親は投獄されて出所後、弱った心身のまま死亡する。息子と母親は、難民となってアメリカへやってくるが、手続き上の不備も重なって不法滞在の状態のままである。
出口と入口、そしてタレクはシリアへ強制送還される。母親もまた、再びシリアから出国できないであろうことを覚悟して、息子のいるシリアへと帰っていく。エアポート、出国と入国の特別な場である<港>に大きく下がっている「星条旗」がかすんでいく。
ウォルターとタレク、そしてモーナとの新しい扉、新しいインターコースのストーリーは映画を見てもらおう。ウォルターのアジア貿易論が、「ふり」でなく、新たな展開をみせるかは、・・・・・である。
希望になるかどうかは定かではないが、ウォルターの「ホーム」で内と外を透かして見せる<窓>をみがいているモーナがいる。窓は内と外を遮断するものではなく、内と外をつないでいくのだ。プライバシーとか個の自立を言い立てる方向とは逆に<世界>をホームに、ホームを<世界>に開いていくのだ。ここの窓と収容所のつい立の仕切り。イマ、ウォルターのホームはシリア人のモーナによって透明になっていく。人間が人間と向き合い、受け入れるには何が必要なのかをこのシーンは、何気なく伝えている。そしてこのようなシーンによって成り立っているこのムーヴィもまた<静かな>、だが確固とした<意志>によって<扉>をたたいている。私たちは、「クニにつくべきか、それともヒトにつくべきか」を問われているのだ。最後にウォルターの叫びを書いておこう。
「あんないい青年を、人をこんなふうに扱っていいのか!私たちはなんて無力なんだ。」
『シャンハイ』 (DVD)
スター、フェイスムーヴィ。
それぞれの「スター」がすでに「御存知」の役回りを上手にこなすという映画。もちろんスターの顔みせなのだが、主役は「上海」という都市のアジア的なわいざつさである。1941年のシャンハイが租界の中にルビーのように輝いていた時代。シャンハイのギャングスターの男と女、日本軍の情報部局のトップ、日中の中間にいてあいまいなアメリカのスパイ組織、そして反日ゲリラのテロリズム。ゲリラの主謀格のひとりがギャングの妻となってシャンハイの街にたくさんの流血が連続する。言うまでもなく、たくさんの群衆の動き、どちらへ行ったらいいのか方向の目安もなく右往左往する姿がまさにシャンハイの核心なのだろう。
軍国の社会の中のスパイ、その非情の中に交差するつかの間の愛と友情は、平時のそれとはかなり異なったものだろうが、この映画はシャンハイの軍事的スパイ活動に男と女の交差を絡ませながら進行する。日米開戦までのわずかな日々、<パッション>を共有する。
最初の妻に去られ、失恋の中に再び探し出す第二の恋愛劇のロマンチシズムと、国家が再び自分の姿を露わにする歴史のロマンチシズム。(兵士たちの悲惨や将校たちの権力のはなしではない。) 時代のペシミズムの中で、時代の軸心に手をかけていく男や女たち。すでに状況は確信的に一定の方向に走り出している。男も女も選択の余地などなく、関係の絶対性の中に倒れていく。
極めてゴージャスとしかいいようがないシャンハイの<熱>に浮かされているのは、登場人物ばかりではない。私たちもまたシャンハイのスピーディーな時間に引き込まれている。ふたたびシャンハイに戻っていく男、女。生命はたやすくじゅうりんされたが、生命を賭しての思いやイデーが十全に発露された時代、そして「シャンハイ」なのだ。
それぞれの「スター」がすでに「御存知」の役回りを上手にこなすという映画。もちろんスターの顔みせなのだが、主役は「上海」という都市のアジア的なわいざつさである。1941年のシャンハイが租界の中にルビーのように輝いていた時代。シャンハイのギャングスターの男と女、日本軍の情報部局のトップ、日中の中間にいてあいまいなアメリカのスパイ組織、そして反日ゲリラのテロリズム。ゲリラの主謀格のひとりがギャングの妻となってシャンハイの街にたくさんの流血が連続する。言うまでもなく、たくさんの群衆の動き、どちらへ行ったらいいのか方向の目安もなく右往左往する姿がまさにシャンハイの核心なのだろう。
軍国の社会の中のスパイ、その非情の中に交差するつかの間の愛と友情は、平時のそれとはかなり異なったものだろうが、この映画はシャンハイの軍事的スパイ活動に男と女の交差を絡ませながら進行する。日米開戦までのわずかな日々、<パッション>を共有する。
最初の妻に去られ、失恋の中に再び探し出す第二の恋愛劇のロマンチシズムと、国家が再び自分の姿を露わにする歴史のロマンチシズム。(兵士たちの悲惨や将校たちの権力のはなしではない。) 時代のペシミズムの中で、時代の軸心に手をかけていく男や女たち。すでに状況は確信的に一定の方向に走り出している。男も女も選択の余地などなく、関係の絶対性の中に倒れていく。
極めてゴージャスとしかいいようがないシャンハイの<熱>に浮かされているのは、登場人物ばかりではない。私たちもまたシャンハイのスピーディーな時間に引き込まれている。ふたたびシャンハイに戻っていく男、女。生命はたやすくじゅうりんされたが、生命を賭しての思いやイデーが十全に発露された時代、そして「シャンハイ」なのだ。
『ミスター・ノーボディ』
ムーヴィの連続性を切って見る。枠組みは参照としての壁面となる。
この壁面にミスター・ノーボディのさまざまな記憶の部分が再現する。ほとんどつながらない、ムジュンだらけのイメージなのだが、196歳の老人はいっさいモノガタリを説明しない。ひとりの人格のそのときどきの展開がいく重にも分裂していく。
老人が「地球で最後に死ぬ人間」として報道されている。
この老人は「自分は34歳だ」と言っているが、もちろん圧倒的に老人である。この世界は誰も死なない。未来世界のコピーだらけの不死の世界である。衣装も車も同一、同型のただピカピカに(やはり)美しい景がある。景もまた同じなのだから時計は機能するが、<時間>はないのだろう。
人々はTV画面で老人の<死ぬ>という最後の一瞬を待っている。
TV画面の外は静穏であるが、老人の再現された記憶の中は濃い感情のシーンである。
出会いと別れがシーンを緊張させる。老人のたくさんの死がよみがえってくる。時間そのものがひとつづきではないのである。記憶に紛れ込んでいるのは、他人の記憶なのか、もうひとりのありえたかもしれない自分のイメージなのか。判然としないまま、時間の断片が反復される。水と火の強烈な対比、プールという水の場所への恐怖、エリース、アンナ、・・・四人の女性との関係が無作諸的に入り混じる。生と死の、別れの旋律が奏でる生涯。誰でもないヒト、nobodyが生きている。誰も死ななくなった世界で<死>を実現するイメージ、記憶だけが生きている。
この壁面にミスター・ノーボディのさまざまな記憶の部分が再現する。ほとんどつながらない、ムジュンだらけのイメージなのだが、196歳の老人はいっさいモノガタリを説明しない。ひとりの人格のそのときどきの展開がいく重にも分裂していく。
老人が「地球で最後に死ぬ人間」として報道されている。
この老人は「自分は34歳だ」と言っているが、もちろん圧倒的に老人である。この世界は誰も死なない。未来世界のコピーだらけの不死の世界である。衣装も車も同一、同型のただピカピカに(やはり)美しい景がある。景もまた同じなのだから時計は機能するが、<時間>はないのだろう。
人々はTV画面で老人の<死ぬ>という最後の一瞬を待っている。
TV画面の外は静穏であるが、老人の再現された記憶の中は濃い感情のシーンである。
出会いと別れがシーンを緊張させる。老人のたくさんの死がよみがえってくる。時間そのものがひとつづきではないのである。記憶に紛れ込んでいるのは、他人の記憶なのか、もうひとりのありえたかもしれない自分のイメージなのか。判然としないまま、時間の断片が反復される。水と火の強烈な対比、プールという水の場所への恐怖、エリース、アンナ、・・・四人の女性との関係が無作諸的に入り混じる。生と死の、別れの旋律が奏でる生涯。誰でもないヒト、nobodyが生きている。誰も死ななくなった世界で<死>を実現するイメージ、記憶だけが生きている。
『パレルモシューティング』 (DVD)
ヴィムベンタース監督
男、フォトグラファー。<死>が接近してくる。カメラをふり回しているうちに、危地の中で<死神>を撮ってしまう。
確かに死神が実在している。
死神との対話。カメラがデジタル化して<死>が不在になった。
写真の背景にあったはずの死人が失われ、一枚の画像を保証(担保)するものが消えてしまったのだ。
アナログのカメラは写真の対象とともにイメージを介在して共存するが、デジタルのカメラはメカニックの中にイメージが立っている。だからデジタルのカメラには<死神>は写らない。同時に<死>が消えた。つまりはデジタルの世界には死と対立、共存する生もまた消えたということなのだろう。
このフォトグラファーの生の減衰を現代の生の腿色に重ねてみれば、生命のもろさ希薄化が死への傾斜なのだと見える。
つまりは生とは死の謂なのだと言ってもいいだろう。
死神は言う。「死は生の中に実在する」(ちょっと言い方は違うかな。)
「死は終わりではない、死の終わり、つまり出発なのだ。」「私から出発するのだ。」
死神が美しい。デニスホッパー。
昨今のホワイトではない、白い衣装が死の深みを(うーん、美しさかなぁ、)見せている。
<触れる>、死に触れる、生に触れる。
触れる感覚の中にその記憶の中に刻印されるものだけが生の奥行きとでも言うべきものを実感させてくれる。カメラはイマなにを撮っているのか?死が不在になって、ただモノガタリの断片をつないでいるのだろうか。みんなが知っているモノガタリがどんどん色を失っている。いまにカタチもあいまいになって混濁するだろう。
ここから『ミスター・ノーボディ』(DVD)へはひと続きである。
後日へ。
確かに死神が実在している。
死神との対話。カメラがデジタル化して<死>が不在になった。
写真の背景にあったはずの死人が失われ、一枚の画像を保証(担保)するものが消えてしまったのだ。
アナログのカメラは写真の対象とともにイメージを介在して共存するが、デジタルのカメラはメカニックの中にイメージが立っている。だからデジタルのカメラには<死神>は写らない。同時に<死>が消えた。つまりはデジタルの世界には死と対立、共存する生もまた消えたということなのだろう。
このフォトグラファーの生の減衰を現代の生の腿色に重ねてみれば、生命のもろさ希薄化が死への傾斜なのだと見える。
つまりは生とは死の謂なのだと言ってもいいだろう。
死神は言う。「死は生の中に実在する」(ちょっと言い方は違うかな。)
「死は終わりではない、死の終わり、つまり出発なのだ。」「私から出発するのだ。」
死神が美しい。デニスホッパー。
昨今のホワイトではない、白い衣装が死の深みを(うーん、美しさかなぁ、)見せている。
<触れる>、死に触れる、生に触れる。
触れる感覚の中にその記憶の中に刻印されるものだけが生の奥行きとでも言うべきものを実感させてくれる。カメラはイマなにを撮っているのか?死が不在になって、ただモノガタリの断片をつないでいるのだろうか。みんなが知っているモノガタリがどんどん色を失っている。いまにカタチもあいまいになって混濁するだろう。
ここから『ミスター・ノーボディ』(DVD)へはひと続きである。
後日へ。
『桜田門外の変』
幕末の志士でひとくくりすることはできない。
水戸の浪人も薩摩の武士も<志>ある武士なのであろうが、行動は今で言う左翼小児病的である。
連合赤軍の兵士もまた<志>という魔物に引きずられたのだろうか。新旧を問わず<志>が全幅の義を己のものとするとき、義はその抽象性の故にすべての、目的も手段も、さらにいえば敵も味方も、己の敵へと外側に弾き出してしまう。自分たちは<サキガケ>なのだ。後のものが続いて動くはずだ、動くべきだ、動かぬはずはないと一途になる。
至誠一貫という倫理が御旗となって義はどこから見ても正しくなる。
画面からは、いたる処でいかにも浪士たちの「至誠」が伝わってくる。
だが、ことが成功するか失敗するかは、運みたいなものになってしまう。状況が一変すれば、絶対の義も自分たちだけの正義に縮んでしまう。要領のいい、立ち回りのいい者は、生き延びる新たな<義>や論理を探し出すだろう。だが自らの抱え込んだ義がいつしか状況の反対側に押しやられてしまうとき、この「至誠」一辺倒は、道をふさがれ、行き場を失うだろう。
行動の<義>は、アクションを起こす者の志(倫理)に保証されない。
義と志しをつないでいるのは、行動する者の<行為>だけある。
自分たちの行為を、自分たちでしか測れなくなったら義と志は分離しているのだ。
さて映画のはなし。
この誠実な武士たち、斉昭を含めてその正直な面々のなかでひとり「誠」を演じていない武士がいた。
演じようとしても、誠の方が滑り落ちてしまう武士がいた。柄本明演じる武士である。
どうにも力んでいるようで、力めば力むほど、嘘がばれるように見えた。ウーム、これはミスキャストか、いや待て、この幕末の武士たちの<至誠主義>へのシニカルな批評として、この役者を使っているのではないのかと勘ぐってしまった。それにしても幕末の人はよく死ぬ。映画の作りばなしのことではない。自死する水際まで時代の水圧が上がっていたのだろう。
死は軽く、時代は重くだったのだろうか。
しかしこの映画は何を見てほしかったのだろう。きれい過ぎて目はどこにも引っかからなかった。
シーンも人もこぎれいに作られていて、いはば「観光誘致ムーヴィ」の様相であるように見えてしまった。
袋田の滝まで見せるサーヴィスには笑ってしまった。
昨今の水戸黄門病は、江戸という閉じられた時代の<安定>へのノスタルジーなのか、市長までがTBSへお願いに参上とか。
さらに藩校を世界遺産にしようという運動まで始めたとか。
ウーム、想像力がないのかねぇ。勉強不足なのかねぇ。
いよいよ地盤沈下だねぇ。
水戸の浪人も薩摩の武士も<志>ある武士なのであろうが、行動は今で言う左翼小児病的である。
連合赤軍の兵士もまた<志>という魔物に引きずられたのだろうか。新旧を問わず<志>が全幅の義を己のものとするとき、義はその抽象性の故にすべての、目的も手段も、さらにいえば敵も味方も、己の敵へと外側に弾き出してしまう。自分たちは<サキガケ>なのだ。後のものが続いて動くはずだ、動くべきだ、動かぬはずはないと一途になる。
至誠一貫という倫理が御旗となって義はどこから見ても正しくなる。
画面からは、いたる処でいかにも浪士たちの「至誠」が伝わってくる。
だが、ことが成功するか失敗するかは、運みたいなものになってしまう。状況が一変すれば、絶対の義も自分たちだけの正義に縮んでしまう。要領のいい、立ち回りのいい者は、生き延びる新たな<義>や論理を探し出すだろう。だが自らの抱え込んだ義がいつしか状況の反対側に押しやられてしまうとき、この「至誠」一辺倒は、道をふさがれ、行き場を失うだろう。
行動の<義>は、アクションを起こす者の志(倫理)に保証されない。
義と志しをつないでいるのは、行動する者の<行為>だけある。
自分たちの行為を、自分たちでしか測れなくなったら義と志は分離しているのだ。
さて映画のはなし。
この誠実な武士たち、斉昭を含めてその正直な面々のなかでひとり「誠」を演じていない武士がいた。
演じようとしても、誠の方が滑り落ちてしまう武士がいた。柄本明演じる武士である。
どうにも力んでいるようで、力めば力むほど、嘘がばれるように見えた。ウーム、これはミスキャストか、いや待て、この幕末の武士たちの<至誠主義>へのシニカルな批評として、この役者を使っているのではないのかと勘ぐってしまった。それにしても幕末の人はよく死ぬ。映画の作りばなしのことではない。自死する水際まで時代の水圧が上がっていたのだろう。
死は軽く、時代は重くだったのだろうか。
しかしこの映画は何を見てほしかったのだろう。きれい過ぎて目はどこにも引っかからなかった。
シーンも人もこぎれいに作られていて、いはば「観光誘致ムーヴィ」の様相であるように見えてしまった。
袋田の滝まで見せるサーヴィスには笑ってしまった。
昨今の水戸黄門病は、江戸という閉じられた時代の<安定>へのノスタルジーなのか、市長までがTBSへお願いに参上とか。
さらに藩校を世界遺産にしようという運動まで始めたとか。
ウーム、想像力がないのかねぇ。勉強不足なのかねぇ。
いよいよ地盤沈下だねぇ。
『マイバックページ』
川本 三郎原作
<朝力事件>、「朝日ジャーナル」、記者と通して'72年の風俗。
役者というものの役は見えないことによって役所が見えてくる。役者の素ではない。
そういうもの、役以前の素のヒトも役者の演ずるヒトも消えたところに意識の下の人がある。
事件のトピック性やストーリーに絡めとられたモノガタリでフィルムが回っているムーヴィはつまらない。
フィルムはそれらを裏切るようにして顕れるトキがおもしろい。
描写、人物も背景もそれらしい配置やデフォルメによって何をもたらすのか。
説明が不要というのではないが、事実らしさが事実のリアルを色あせさせることがある。
もちろん観客の記憶や情報、知識の質、量によって異なるのはいうまでもない。
さてこのムーヴィはナニを伝えるのか。
川本氏の『マイバックページ』原作をなぞっているわけでもあるまい。
マイ=私の、バック=過去、背後の、ページ=ストーリーはフィルムの進行方向だろう。
事実と虚構にまとわりつく理想、理念、観念=イデーと報道のリアルとフィクション。この二つの関係、事実と虚構、事実(と想定されたもの)と報道のそれぞれの間にヒトが<動く>。ヒトのパッションがアクションとつながってヒトがヒトに関係する。
革命ではなく、革命への加担、参加、共犯幻想。
サッカーファン同様、革命にもファンがいる。革命モノガタリに、まきこまれたい幻想、みんな幻想である。
<時代>の風潮からはじかれることの不安。この70年代初めのワカモノの風俗は、人を殺すこと、極端こそ価値的に見えたのだろうか。「俺の方が大病だぞ」というあれだ。
役者というものの役は見えないことによって役所が見えてくる。役者の素ではない。
そういうもの、役以前の素のヒトも役者の演ずるヒトも消えたところに意識の下の人がある。
事件のトピック性やストーリーに絡めとられたモノガタリでフィルムが回っているムーヴィはつまらない。
フィルムはそれらを裏切るようにして顕れるトキがおもしろい。
描写、人物も背景もそれらしい配置やデフォルメによって何をもたらすのか。
説明が不要というのではないが、事実らしさが事実のリアルを色あせさせることがある。
もちろん観客の記憶や情報、知識の質、量によって異なるのはいうまでもない。
さてこのムーヴィはナニを伝えるのか。
川本氏の『マイバックページ』原作をなぞっているわけでもあるまい。
マイ=私の、バック=過去、背後の、ページ=ストーリーはフィルムの進行方向だろう。
事実と虚構にまとわりつく理想、理念、観念=イデーと報道のリアルとフィクション。この二つの関係、事実と虚構、事実(と想定されたもの)と報道のそれぞれの間にヒトが<動く>。ヒトのパッションがアクションとつながってヒトがヒトに関係する。
革命ではなく、革命への加担、参加、共犯幻想。
サッカーファン同様、革命にもファンがいる。革命モノガタリに、まきこまれたい幻想、みんな幻想である。
<時代>の風潮からはじかれることの不安。この70年代初めのワカモノの風俗は、人を殺すこと、極端こそ価値的に見えたのだろうか。「俺の方が大病だぞ」というあれだ。
『オリヲン座からの招待状』
三枝 健起監督、浅田 次郎原作
ギリシャ神話、オリオン座の話から始めよう。
冬の美しい星座となったオリオン、貞潔の女神アルケミスを襲い、その強さ、不遜さによって毒さそりに刺されて死ぬ。禁じられて
いるものを犯すこと、そのとき成就されたのは愛か、苦しみか。ここでは問わない。オリオン座とともに出てくる大犬座と小犬座。大犬座の主星は、夏も冬も青白い光芒を放っているシリウスである。
ここではシリウスこそ映画の光りであり、映画館と考えよう。暗い闇のなかでそこだけが青白く光っているオリオン座という映画館、その映画館自体がシリウスのように光芒を放っているのだ。座という場所、ひとつの定点ではない。座にはいろいろな人々が集まってくる。観客、映写技師、その妻、見習い技師、若い恋人?少年少女、そして何よりもオリオン座のなかを時代が次々と通過していく。時間が経過するものがたりとは、つまり映画であり、回転するフィルムである。
フィルムに映写される物語、『無法松の一生』であり、チャンバラ映画であり、そして映画館に集まってきた人々の時を経過していく物語でもある。オリオン座とはフィルムを回転させる場所であり、オリオン座に集まってきた人々の物語という二重の仕掛け、いやその物語をギリシャ神話に近接させる三重の仕掛けと言うべきか。さらに言えば、人々の紡ぎだす物語は、つねに三つ巴で参照され、引用されていく。神話の物語を核として、この映画の物語の中の人々も、観客(主要人物の周囲の人たち)も、これを見ている私たち観客も、三つ巴で参照され、引用されていく。その中心に映写機=時代が回っているのである。
昭和30年代、京都西陣。オリオン座の映写機が回っている。
留吉という若い男が見習いとしてオリオン座に入ってくる。映画の、人生の、ものがたりの始まりである。
オリオン座の最初に上映されるべきだった映画『無法松の一生』のエピソード。阪東妻三郎の太鼓が響いてくる。耳の底、記憶の彼方から響いてくる。告白を禁じられた松(待つ)の状況が隠されている。(とはいえ観客には周知のことである。)ほとんど愛の告白(?)でもあるかのような太鼓の響きである。
館主、松蔵が一番に好きだった映画は、松蔵の死後再開するときに映写される。松蔵の喫煙、肺を病みながらの喫煙の無謀は、無法松に繋がっているのか。松蔵の死によって、主題の幕が開く。禁じられた愛、今風の愛ではない。
京都西陣版、昭和の『無法松の一生』が始まる。
亡き夫の遺志を継いで、寡婦トヨと、映写技師トメ吉が半世紀を越えてオリオン座を守り続ける。松蔵がなくなる前に3人で映画館をバックに写真を撮る。松蔵が留吉にかぶっていた帽子を被せて撮る写真がある。この瞬間は少し浮遊しているような何とも言えないシーンである。松蔵の死と留吉の代替わりを暗示しているのか。しかしこの写真はトヨによって失敗だったと言われ、隠されたまま松蔵は見ることはない。留吉は松蔵の分身なのか。なぜトヨは隠したのか。そうなのだ、おそらくは自分のこころを隠したのだ。この映画の主題である「秘められるこころ」である。しかし松蔵のこころはどうか。分身=こどもが欲しかったのではないのか。無法松の物語の後日を、満たされたエンディングを欲していたのではないのか。いや、たとえそうであったとしても、無法者に惹かれていたものにハッピイエンドはない。ただ留吉がオリオン座を松蔵の分身のように守ったのだ。そう、オリオン座とは松蔵とトヨそのものであったのだ。オリオン座の存続は、トヨと留吉の関係の持続なのだ。
留吉は、他の映画館ヘフィルムを貸したり借りたりするために自転車に乗って往復している。映画館から映画館へ、そしてまた元のオリオン座へ、これが留吉の言うならば愛である。言うまでもなく、自転車とは映写機の回転であり、物語の展開であり人生そのものなのだ。自転車を、車輪を回転させること、つまり映画を、オリオン座の物語をココロのなかで写しているのだ。トヨもまたオリオン座を再開する前、公園で留吉といるときに自転車に乗る。留吉の乗っている自転車に乗る。トヨの晴々とした表情。公園を走るトヨを見ている留吉、ふたりの気持ちがひとつになっていく。あきらかにこのとき松蔵は留吉に帽子を渡したのである。そしてこれはまた苦難の始まりでもある。お互いに愛し合っていたとしても、決して口で告げることは許されない関係の始まりなのである。
トヨが看板をかけているときに足を骨折する。歩けないので留吉がおぶって接骨院へ連れて行く。町中を、恥ずかしがるトヨを強引に背負っていく。歩けないトヨ、それ以上は踏み込めないふたりの関係である。おんぶする。背と胸が服の上から触れる。この接触はラストふたたびくりかえされる。背と胸である、胸と胸ではない。この切なさを、苦しさをやはり愛なのだと言うべきだろうか。せきとめられている愛。背負うとはどういうことなのか。支える、尽くす、そして思っているのだ、感じているのだ、ただひたすら相手の全
身を。燃え上がって燃え尽きるようなパヅションとは違う情熱。ずっと持続している情熱である。(*1)
次のシーンは蚊帳の中、夏の蛍を留吉が両手を包むようにして捕らえてくる。
外の暗闇から、蚊帳の中の薄暗闇へ放される蛍が二匹。薄暗闇とはふたりの関係、距離の謂いである。はっきりさせることのできない禁忌がある。二匹の蛍の黄色い曳光線、愛の成就ではなく、切ない求愛である。おそらくはこれが愛のカタチ(?)なのかもしれないと思わせるほどの純粋な時間が流れる。蚊帳、肌を刺す蚊を避ける、触れない状況である。半透明に透けている麻のすがすがしい香が満ちているのである。なかではトヨの浴衣すがた、誘惑と禁忌。そこへ留吉の両手から蛍が放たれる。この手、蚊帳の中へ差し込まれた手へ、トヨの手が被さる。
時代はTVへ。映画は斜陽産業となり観客は消えていく。客のこないオリオン座は一組の少年少女の避難場所となる。家庭から逃げてくるふたりへ、あたかも父母であるかのように対する留吉とトヨ。「幸せなら手をたたこう。」幼い二人の劇中劇である。クリスマスや誕生会、ここへの出入りを禁じられてもふたりは毎日のようにやってくる。オリオン座とともに昇ってくる大犬座と小犬座である。留吉とトヨの果たされなかった結婚だが、こどもを作ることはできたのだ。後年、都会へ出て行ったふたりは結婚し、いまは離婚寸前で別居している。このふたりヘオリオン座ラストショウの招待状が届く。京都へ戻って自分たちを結びつけたオリオン座の最後を看取って離婚しようという。オリオン座の閉館はふたつの愛の成就になるのか、それとも破綻となるのか。四人がふたたびオリオン座で一緒になる。
映画のラスト、人生のラストで、新しい愛は、切実に求め会う愛は生まれるのか。ふたたびの『無法松の一生』、太鼓の響きは、愛の切なさは伝わるのか。ラスト、拍手、「幸せなら手をたたこう。」、昔のままにポップコーンの容器に手を差し入れるふたりである。
手が触れるとは、かくもむずかしく深いことなのか。手はタマシイそのものとなるのだろう。
この映画自体は、オリオン座の閉館から始まっている。だから本当ならばこのオリオン座閉館の意味から考えるべきなのだが、これは映画のラストまでのお預けである。オリオン座という暗闇が育んできたもの、映画というかけがえのない暗闇が用意したものは、観客も映画をもシアワセにしてきたのである。まだ映写機は回りつづけている。
(*1)enthusiasm:a strong feeling of excitement or interest in stand a desire to become involved in it
冬の美しい星座となったオリオン、貞潔の女神アルケミスを襲い、その強さ、不遜さによって毒さそりに刺されて死ぬ。禁じられて
いるものを犯すこと、そのとき成就されたのは愛か、苦しみか。ここでは問わない。オリオン座とともに出てくる大犬座と小犬座。大犬座の主星は、夏も冬も青白い光芒を放っているシリウスである。
ここではシリウスこそ映画の光りであり、映画館と考えよう。暗い闇のなかでそこだけが青白く光っているオリオン座という映画館、その映画館自体がシリウスのように光芒を放っているのだ。座という場所、ひとつの定点ではない。座にはいろいろな人々が集まってくる。観客、映写技師、その妻、見習い技師、若い恋人?少年少女、そして何よりもオリオン座のなかを時代が次々と通過していく。時間が経過するものがたりとは、つまり映画であり、回転するフィルムである。
フィルムに映写される物語、『無法松の一生』であり、チャンバラ映画であり、そして映画館に集まってきた人々の時を経過していく物語でもある。オリオン座とはフィルムを回転させる場所であり、オリオン座に集まってきた人々の物語という二重の仕掛け、いやその物語をギリシャ神話に近接させる三重の仕掛けと言うべきか。さらに言えば、人々の紡ぎだす物語は、つねに三つ巴で参照され、引用されていく。神話の物語を核として、この映画の物語の中の人々も、観客(主要人物の周囲の人たち)も、これを見ている私たち観客も、三つ巴で参照され、引用されていく。その中心に映写機=時代が回っているのである。
昭和30年代、京都西陣。オリオン座の映写機が回っている。
留吉という若い男が見習いとしてオリオン座に入ってくる。映画の、人生の、ものがたりの始まりである。
オリオン座の最初に上映されるべきだった映画『無法松の一生』のエピソード。阪東妻三郎の太鼓が響いてくる。耳の底、記憶の彼方から響いてくる。告白を禁じられた松(待つ)の状況が隠されている。(とはいえ観客には周知のことである。)ほとんど愛の告白(?)でもあるかのような太鼓の響きである。
館主、松蔵が一番に好きだった映画は、松蔵の死後再開するときに映写される。松蔵の喫煙、肺を病みながらの喫煙の無謀は、無法松に繋がっているのか。松蔵の死によって、主題の幕が開く。禁じられた愛、今風の愛ではない。
京都西陣版、昭和の『無法松の一生』が始まる。
亡き夫の遺志を継いで、寡婦トヨと、映写技師トメ吉が半世紀を越えてオリオン座を守り続ける。松蔵がなくなる前に3人で映画館をバックに写真を撮る。松蔵が留吉にかぶっていた帽子を被せて撮る写真がある。この瞬間は少し浮遊しているような何とも言えないシーンである。松蔵の死と留吉の代替わりを暗示しているのか。しかしこの写真はトヨによって失敗だったと言われ、隠されたまま松蔵は見ることはない。留吉は松蔵の分身なのか。なぜトヨは隠したのか。そうなのだ、おそらくは自分のこころを隠したのだ。この映画の主題である「秘められるこころ」である。しかし松蔵のこころはどうか。分身=こどもが欲しかったのではないのか。無法松の物語の後日を、満たされたエンディングを欲していたのではないのか。いや、たとえそうであったとしても、無法者に惹かれていたものにハッピイエンドはない。ただ留吉がオリオン座を松蔵の分身のように守ったのだ。そう、オリオン座とは松蔵とトヨそのものであったのだ。オリオン座の存続は、トヨと留吉の関係の持続なのだ。
留吉は、他の映画館ヘフィルムを貸したり借りたりするために自転車に乗って往復している。映画館から映画館へ、そしてまた元のオリオン座へ、これが留吉の言うならば愛である。言うまでもなく、自転車とは映写機の回転であり、物語の展開であり人生そのものなのだ。自転車を、車輪を回転させること、つまり映画を、オリオン座の物語をココロのなかで写しているのだ。トヨもまたオリオン座を再開する前、公園で留吉といるときに自転車に乗る。留吉の乗っている自転車に乗る。トヨの晴々とした表情。公園を走るトヨを見ている留吉、ふたりの気持ちがひとつになっていく。あきらかにこのとき松蔵は留吉に帽子を渡したのである。そしてこれはまた苦難の始まりでもある。お互いに愛し合っていたとしても、決して口で告げることは許されない関係の始まりなのである。
トヨが看板をかけているときに足を骨折する。歩けないので留吉がおぶって接骨院へ連れて行く。町中を、恥ずかしがるトヨを強引に背負っていく。歩けないトヨ、それ以上は踏み込めないふたりの関係である。おんぶする。背と胸が服の上から触れる。この接触はラストふたたびくりかえされる。背と胸である、胸と胸ではない。この切なさを、苦しさをやはり愛なのだと言うべきだろうか。せきとめられている愛。背負うとはどういうことなのか。支える、尽くす、そして思っているのだ、感じているのだ、ただひたすら相手の全
身を。燃え上がって燃え尽きるようなパヅションとは違う情熱。ずっと持続している情熱である。(*1)
次のシーンは蚊帳の中、夏の蛍を留吉が両手を包むようにして捕らえてくる。
外の暗闇から、蚊帳の中の薄暗闇へ放される蛍が二匹。薄暗闇とはふたりの関係、距離の謂いである。はっきりさせることのできない禁忌がある。二匹の蛍の黄色い曳光線、愛の成就ではなく、切ない求愛である。おそらくはこれが愛のカタチ(?)なのかもしれないと思わせるほどの純粋な時間が流れる。蚊帳、肌を刺す蚊を避ける、触れない状況である。半透明に透けている麻のすがすがしい香が満ちているのである。なかではトヨの浴衣すがた、誘惑と禁忌。そこへ留吉の両手から蛍が放たれる。この手、蚊帳の中へ差し込まれた手へ、トヨの手が被さる。
時代はTVへ。映画は斜陽産業となり観客は消えていく。客のこないオリオン座は一組の少年少女の避難場所となる。家庭から逃げてくるふたりへ、あたかも父母であるかのように対する留吉とトヨ。「幸せなら手をたたこう。」幼い二人の劇中劇である。クリスマスや誕生会、ここへの出入りを禁じられてもふたりは毎日のようにやってくる。オリオン座とともに昇ってくる大犬座と小犬座である。留吉とトヨの果たされなかった結婚だが、こどもを作ることはできたのだ。後年、都会へ出て行ったふたりは結婚し、いまは離婚寸前で別居している。このふたりヘオリオン座ラストショウの招待状が届く。京都へ戻って自分たちを結びつけたオリオン座の最後を看取って離婚しようという。オリオン座の閉館はふたつの愛の成就になるのか、それとも破綻となるのか。四人がふたたびオリオン座で一緒になる。
映画のラスト、人生のラストで、新しい愛は、切実に求め会う愛は生まれるのか。ふたたびの『無法松の一生』、太鼓の響きは、愛の切なさは伝わるのか。ラスト、拍手、「幸せなら手をたたこう。」、昔のままにポップコーンの容器に手を差し入れるふたりである。
手が触れるとは、かくもむずかしく深いことなのか。手はタマシイそのものとなるのだろう。
この映画自体は、オリオン座の閉館から始まっている。だから本当ならばこのオリオン座閉館の意味から考えるべきなのだが、これは映画のラストまでのお預けである。オリオン座という暗闇が育んできたもの、映画というかけがえのない暗闇が用意したものは、観客も映画をもシアワセにしてきたのである。まだ映写機は回りつづけている。
(*1)enthusiasm:a strong feeling of excitement or interest in stand a desire to become involved in it
『村の写真集』
三原 光尋
――――歩く。
ダム、村、村人と来れば物語の外枠はできている。
ダムによって人々の生活は一変する。
だから100年後へ記憶と記録を届けるために、村の写真集を作ろう。
村の写真屋のおやじが都会から息子を呼び寄せて助手にする。もちろんここにも親子の対立、世代の対立が持ち込まれるだろう。この映画のストーリーはありきたりといえばそうだろう。だが、この映画が、まさに映画となるのはストーリーによってではないし、親子の和解による感動的シーンによってでもない。登場人物の個々のものがたりはこの映画の背景でしかないだろう。
父親もまた都会で将来を嘱望されたカメラマンであったこと、妻の病弱のゆえに田舎へ引っ込んだのだということ、父親の病気(胃ガン?)と死を代償にして最後の『家族写真』が撮れたということ。しかしこれらは脚本でしかない。
写真家ではなく、写真屋がひとりひとりの村人のいるところへ出かけて行って写真を撮ること、そこに村人が生まれ、村ができる。そういう映画なのだ。その一瞬のために、カメラ道具一式を担いで歩いていく。そうなのだ、村人がかつてあるいた村の道を辿っていくこと、その先に写真があるのだということ。車でなどでは村人に辿り着けないのだ。
役場が用意した車を断って歩く。たんに記録を残すというのであれば、迅速に処理すれば済むだろうが、そこには村人がうまれていないだろう。そうではないのだ、村人がかつて歩いたように、村の中を歩くことによってしか村は立ち上がらないことを村人のひとりである男は知っているのだ。
写真屋はただものではないのだ、写真家の誕生と村人の誕生は同時なのだと言ってもいい。
写真集作りのために歩くのではない。歩くことによって村が、村人がみえてくる。そこに写真撮りの位置が決まるのだ。歩かなければ村人の立つ位置がわからないのだ。最後の写真をなぜ息子が撮れないのか、写真技術の差なのではあるまい。力量よりももっと本質的な、村の成り立ちの理解の差なのだ。村を歩くとはどういうことなのか、いまは詳らかにはしない。この写真撮りは記録ではなく、記憶を産みつけること、村を記憶に浮かび上がらせることに主眼があるのだろう。だから歩く、村の道を、村の山道を歩くのだ。この映画のなかで一番輝いているところである。
親子の対立や、家族というものがたりや、田舎と東京、写真屋と写真家などという対立の図式はエイガというものがたりの枠組みでしかあるまい。この村の写真屋の写真とは、時間に沿って流れていく日常を一瞬に留めることではない。動かない一瞬を日常の時間の中から盗み取るように奪うことである。
動かない一瞬とはなにか。ブレのない本質である。
画像がではない、その人がその人であるような一瞬間を抜き取ること、だからだれにでも撮れる写真ではないのだ。写っているのは真の輝きである。だから村の日常を特権化するために歩く、村人のなかを歩く。村人の表情のなかを歩くのだ。老いと病と親子の争いの中を、その歩行困難な道を歩く。だから端整に着こなした背広を着て歩く。村人との挨拶もまた写真を支える機である。この機がブレてしまうと写真にはならないのだ。
だからと言おうか、藤竜也の映画になってしまったのだ。
他の役者が未熟であると言うことではないが、役の高橋写真館主人はいつしか藤竜也に取って代わられてしまっている。
日々の生活の中の村の風景、山並みや川、村人のすがた、村人の顔は、言うまでもなく素ではない。素のままであったとしてもフィルムのなかでは映画的なカタチ、かがやきを帯びている。この土地は、物があふれているわけでも、文化や、文明の機器(携帯電話やパソコン、ゲームetcetera)が闊歩しているわけでもない。日常のモノとの距離が一定に保たれている。
ヒトとヒトの関係も同様に、ゆるやかな関係が広がっている。ここには都会(?)の、モノやカネに頭も首も手も足も突っ込んで生きているような貧しさはない。人の生きていく身の丈で生きている。だから時間は人間の成長とともに流れていく。
この映画のうつくしさの秘訣がここにあるのだろう。もちろんダム建設反対派と推進派の対立や喧嘩、その他のもろもろの不具合だってあるのは当然。だがこの映画はそのようなものは説明しない。撮るべきものは撮る、不要なものは撮らないという潔さ(?)によってただ歩くのである。
この映画の発見は、歩くということに尽きるのではないのか。
もちろん立ち止まる、寝ている、座っているも、歩くという行為との対比のなかに組み込まれている。写真家高橋氏は、最後には車椅子に座ったまま、息子のカメラのなかに納まることになる。これが最後の村の写真である。写真集の完成とともに氏は、写真集の中に納められる。最後に車椅子とはまたおもしろいエンディングである。
歩くことの意志の持続であり、もはや立たないことの、つまり息子へ引き継いだことの象徴なのだろう。
最後のクレジットとともに画面に現れる、写真集の一枚一枚の白黒写真、黒い、太い枠の中に写っている村人の顔は感動的であり、印象深い。この写真には写真家立木義浩氏が関わっている。
ダム、村、村人と来れば物語の外枠はできている。
ダムによって人々の生活は一変する。
だから100年後へ記憶と記録を届けるために、村の写真集を作ろう。
村の写真屋のおやじが都会から息子を呼び寄せて助手にする。もちろんここにも親子の対立、世代の対立が持ち込まれるだろう。この映画のストーリーはありきたりといえばそうだろう。だが、この映画が、まさに映画となるのはストーリーによってではないし、親子の和解による感動的シーンによってでもない。登場人物の個々のものがたりはこの映画の背景でしかないだろう。
父親もまた都会で将来を嘱望されたカメラマンであったこと、妻の病弱のゆえに田舎へ引っ込んだのだということ、父親の病気(胃ガン?)と死を代償にして最後の『家族写真』が撮れたということ。しかしこれらは脚本でしかない。
写真家ではなく、写真屋がひとりひとりの村人のいるところへ出かけて行って写真を撮ること、そこに村人が生まれ、村ができる。そういう映画なのだ。その一瞬のために、カメラ道具一式を担いで歩いていく。そうなのだ、村人がかつてあるいた村の道を辿っていくこと、その先に写真があるのだということ。車でなどでは村人に辿り着けないのだ。
役場が用意した車を断って歩く。たんに記録を残すというのであれば、迅速に処理すれば済むだろうが、そこには村人がうまれていないだろう。そうではないのだ、村人がかつて歩いたように、村の中を歩くことによってしか村は立ち上がらないことを村人のひとりである男は知っているのだ。
写真屋はただものではないのだ、写真家の誕生と村人の誕生は同時なのだと言ってもいい。
写真集作りのために歩くのではない。歩くことによって村が、村人がみえてくる。そこに写真撮りの位置が決まるのだ。歩かなければ村人の立つ位置がわからないのだ。最後の写真をなぜ息子が撮れないのか、写真技術の差なのではあるまい。力量よりももっと本質的な、村の成り立ちの理解の差なのだ。村を歩くとはどういうことなのか、いまは詳らかにはしない。この写真撮りは記録ではなく、記憶を産みつけること、村を記憶に浮かび上がらせることに主眼があるのだろう。だから歩く、村の道を、村の山道を歩くのだ。この映画のなかで一番輝いているところである。
親子の対立や、家族というものがたりや、田舎と東京、写真屋と写真家などという対立の図式はエイガというものがたりの枠組みでしかあるまい。この村の写真屋の写真とは、時間に沿って流れていく日常を一瞬に留めることではない。動かない一瞬を日常の時間の中から盗み取るように奪うことである。
動かない一瞬とはなにか。ブレのない本質である。
画像がではない、その人がその人であるような一瞬間を抜き取ること、だからだれにでも撮れる写真ではないのだ。写っているのは真の輝きである。だから村の日常を特権化するために歩く、村人のなかを歩く。村人の表情のなかを歩くのだ。老いと病と親子の争いの中を、その歩行困難な道を歩く。だから端整に着こなした背広を着て歩く。村人との挨拶もまた写真を支える機である。この機がブレてしまうと写真にはならないのだ。
だからと言おうか、藤竜也の映画になってしまったのだ。
他の役者が未熟であると言うことではないが、役の高橋写真館主人はいつしか藤竜也に取って代わられてしまっている。
日々の生活の中の村の風景、山並みや川、村人のすがた、村人の顔は、言うまでもなく素ではない。素のままであったとしてもフィルムのなかでは映画的なカタチ、かがやきを帯びている。この土地は、物があふれているわけでも、文化や、文明の機器(携帯電話やパソコン、ゲームetcetera)が闊歩しているわけでもない。日常のモノとの距離が一定に保たれている。
ヒトとヒトの関係も同様に、ゆるやかな関係が広がっている。ここには都会(?)の、モノやカネに頭も首も手も足も突っ込んで生きているような貧しさはない。人の生きていく身の丈で生きている。だから時間は人間の成長とともに流れていく。
この映画のうつくしさの秘訣がここにあるのだろう。もちろんダム建設反対派と推進派の対立や喧嘩、その他のもろもろの不具合だってあるのは当然。だがこの映画はそのようなものは説明しない。撮るべきものは撮る、不要なものは撮らないという潔さ(?)によってただ歩くのである。
この映画の発見は、歩くということに尽きるのではないのか。
もちろん立ち止まる、寝ている、座っているも、歩くという行為との対比のなかに組み込まれている。写真家高橋氏は、最後には車椅子に座ったまま、息子のカメラのなかに納まることになる。これが最後の村の写真である。写真集の完成とともに氏は、写真集の中に納められる。最後に車椅子とはまたおもしろいエンディングである。
歩くことの意志の持続であり、もはや立たないことの、つまり息子へ引き継いだことの象徴なのだろう。
最後のクレジットとともに画面に現れる、写真集の一枚一枚の白黒写真、黒い、太い枠の中に写っている村人の顔は感動的であり、印象深い。この写真には写真家立木義浩氏が関わっている。
『森川 信』を探せ!
「男はつらいよ」、車寅次郎ムーヴィ。
もうずい分前になる。
半世紀近い前のことだ。寅さんシリーズの1から6(?)くらいまでか、「おいちゃん」役で森川信がでていた。
おいちゃんの「バッカだなァ」のひとこと、本当に驚いた。
当時も今も、私の知っているのは、このシリーズの森川信だけである。
後年、いろいろな本で得た知識はあるが、森川信は知識など吹き飛ばしてしまう。
ぜひ 「バッカだなァ」 を見て(ん?聞いてか?)ほしい。
すごいモノがここにあるのだ。
追記; ムーヴィになる前のTVシリーズ、「とらさん」は、沖縄でハヴにかまれて死んでしまうのだが、
終わりようがなくて、しかたなくハヴにかまれて死んだことにしたのだろうか?
そういえばサクラ役は長山藍子だったか?
森川信は出ていたかどうかは記憶にないのだが。
もうずい分前になる。
半世紀近い前のことだ。寅さんシリーズの1から6(?)くらいまでか、「おいちゃん」役で森川信がでていた。
おいちゃんの「バッカだなァ」のひとこと、本当に驚いた。
当時も今も、私の知っているのは、このシリーズの森川信だけである。
後年、いろいろな本で得た知識はあるが、森川信は知識など吹き飛ばしてしまう。
ぜひ 「バッカだなァ」 を見て(ん?聞いてか?)ほしい。
すごいモノがここにあるのだ。
追記; ムーヴィになる前のTVシリーズ、「とらさん」は、沖縄でハヴにかまれて死んでしまうのだが、
終わりようがなくて、しかたなくハヴにかまれて死んだことにしたのだろうか?
そういえばサクラ役は長山藍子だったか?
森川信は出ていたかどうかは記憶にないのだが。
『生きる』
黒沢 明監督
生きるの対局は生きないである。
死ぬではない。死は経験の外にある。誰も<死>を死ぬことはできない。ただミイラだけが死を生きている。
この映画の主人公ワタナベさんは30年間の市役所仕事をミイラとして通過してきた。
生身の体が胃ガンに侵されたとき、ワタナベさんは、ミイラからよみがえってくる。
なぜか、簡潔に言おう。
『なぜ生きているのか、生きてきたのか』と問うこと、その苦しみの中で、<生きる>を見つけたのだ。
家族、仕事仲間、地域の市民。この三つの相の人々はワタナベさんにとって何なのか。
どんなイミや価値があるのか。仕事とはこの三相から見て何なのか。
退職金や出世階段、何もしない、受付けないゼロワーク(たらい回しの中で沈没させることがワーク)がワタナベさんの周辺事情である。
死の臨在(胃ガン)によってワタナベさんの<人生への発見の旅>が始まる。
お金、そして女遊び。だがワタナベさんの肉体はそれら遊興についていけないほど悪化し、『なにもないところ』でただ『生きて在る』ことの苦しみを抱え込む。赤ちゃん用のうさぎのオモチャを作っているときが楽しいという元市役所職員の『ハツラツとした生き方』に押されるようにして、残された時間を、市民の苦情、依頼によって発案された小さな公園造りに捧げる。
それは困苦の中での、生の輝きとなる。5ヶ月の苦闘の後、公園は完成し、ワタナベさんは死去する。
そして後半は、葬儀の場で、ワタナベさんの写真の前で市役所の仕事とはなにか、つまり『生きる』とは何なのか、を問うシーン。
公園造りの手柄は助役(選挙への立候補のため)へと。
えらいさんたちが退場のあとの暴露合戦でワタナベさんの胃ガンや仕事への情熱があかされる。
ミイラの復活は、死へ向けての生と同じことになっていく。いわば、生きることへの傾注が死の坂へと転がり落ちることと等しくなる。これを悦びとして引き受けていく。名誉や出世など死にゆく者、いや言いかえよう、ミイラから生きることへと生還したものにとって何のイミもない。
名誉や出世やお金を必要とするものは、まさに死んでいる者なのだ。
以上のあらすじというかモノガタリをワタナベさんの<生きる>に焦点化して志村喬の役者をほめたたえて終わりなのではない。
ストーリーやテーマの重さはムーヴィの一面である。
黒沢明の撮っているものは、モノガタリではなく<映画>なのだ。
さて、私たちはどこに引きつけられたのか?
どこでもいいのだが、そのシーンをストップして見れば、そのシーンがまさに映画的な絵になっていることに感動するだろう。
映画的と言うのは、映画でしか映しえないカタチが厳然として臨在しているという驚きのことである。カタチとは、カメラの目線や対象の配置などから、映画の作り手たちの(あえて監督とは言うまい)意志が伝わってくる。枠取りのことだ。フレームの向こう側とこちら側が通底していく<カタチ>がある。どう名づけたらピッタリするのかはわからないが、形式でも様式でもない、そのときそのときに生成してくる美なるものとしか言いようがない。
役者がモノガタリをモノガタリとして演じているトキ程退屈なものはない。モノガタリの枠組みを突き破ってくるときなのだ、私たちが真に突き動かされるのは。だから涙や感動のモノガタリへの没入はさし控えた方がいい。クロサワ映画は、モノガタリに依拠していない。明らかにモノガタリ、ストーリーは、映画を作る一要素にすぎない。
<映画>は発見されるべくそこにあるのだ。
たとえば…のシーンを見よ、などと言うのはおせっかいだろう。
野暮ったいことはやめよう。必要なのは、ただ<映画>へ向き合うことだ。
注:「ミイラ」とは、ワタナベさんにつけられたあだ名である。
死ぬではない。死は経験の外にある。誰も<死>を死ぬことはできない。ただミイラだけが死を生きている。
この映画の主人公ワタナベさんは30年間の市役所仕事をミイラとして通過してきた。
生身の体が胃ガンに侵されたとき、ワタナベさんは、ミイラからよみがえってくる。
なぜか、簡潔に言おう。
『なぜ生きているのか、生きてきたのか』と問うこと、その苦しみの中で、<生きる>を見つけたのだ。
家族、仕事仲間、地域の市民。この三つの相の人々はワタナベさんにとって何なのか。
どんなイミや価値があるのか。仕事とはこの三相から見て何なのか。
退職金や出世階段、何もしない、受付けないゼロワーク(たらい回しの中で沈没させることがワーク)がワタナベさんの周辺事情である。
死の臨在(胃ガン)によってワタナベさんの<人生への発見の旅>が始まる。
お金、そして女遊び。だがワタナベさんの肉体はそれら遊興についていけないほど悪化し、『なにもないところ』でただ『生きて在る』ことの苦しみを抱え込む。赤ちゃん用のうさぎのオモチャを作っているときが楽しいという元市役所職員の『ハツラツとした生き方』に押されるようにして、残された時間を、市民の苦情、依頼によって発案された小さな公園造りに捧げる。
それは困苦の中での、生の輝きとなる。5ヶ月の苦闘の後、公園は完成し、ワタナベさんは死去する。
そして後半は、葬儀の場で、ワタナベさんの写真の前で市役所の仕事とはなにか、つまり『生きる』とは何なのか、を問うシーン。
公園造りの手柄は助役(選挙への立候補のため)へと。
えらいさんたちが退場のあとの暴露合戦でワタナベさんの胃ガンや仕事への情熱があかされる。
ミイラの復活は、死へ向けての生と同じことになっていく。いわば、生きることへの傾注が死の坂へと転がり落ちることと等しくなる。これを悦びとして引き受けていく。名誉や出世など死にゆく者、いや言いかえよう、ミイラから生きることへと生還したものにとって何のイミもない。
名誉や出世やお金を必要とするものは、まさに死んでいる者なのだ。
以上のあらすじというかモノガタリをワタナベさんの<生きる>に焦点化して志村喬の役者をほめたたえて終わりなのではない。
ストーリーやテーマの重さはムーヴィの一面である。
黒沢明の撮っているものは、モノガタリではなく<映画>なのだ。
さて、私たちはどこに引きつけられたのか?
どこでもいいのだが、そのシーンをストップして見れば、そのシーンがまさに映画的な絵になっていることに感動するだろう。
映画的と言うのは、映画でしか映しえないカタチが厳然として臨在しているという驚きのことである。カタチとは、カメラの目線や対象の配置などから、映画の作り手たちの(あえて監督とは言うまい)意志が伝わってくる。枠取りのことだ。フレームの向こう側とこちら側が通底していく<カタチ>がある。どう名づけたらピッタリするのかはわからないが、形式でも様式でもない、そのときそのときに生成してくる美なるものとしか言いようがない。
役者がモノガタリをモノガタリとして演じているトキ程退屈なものはない。モノガタリの枠組みを突き破ってくるときなのだ、私たちが真に突き動かされるのは。だから涙や感動のモノガタリへの没入はさし控えた方がいい。クロサワ映画は、モノガタリに依拠していない。明らかにモノガタリ、ストーリーは、映画を作る一要素にすぎない。
<映画>は発見されるべくそこにあるのだ。
たとえば…のシーンを見よ、などと言うのはおせっかいだろう。
野暮ったいことはやめよう。必要なのは、ただ<映画>へ向き合うことだ。
注:「ミイラ」とは、ワタナベさんにつけられたあだ名である。
『慰めの報酬』
イアン・フレミング原作 007シリーズ
何十年ぶりかのボンド。
あの甘やかなマスクのショーンコネリーに比して今度のボンドのハードボイルド調のマスク。
スター用のムーヴィ。展開の仕方も多分同様なのだろう。
まず引っかかったのは音楽。
イントロで歌われている女性歌手の甲高いヒップホップ。
確かにもうかつてのヴォーカリゼーションでは似つかしくはないのだろうが、もうひとつ本気で考えてほしかったなぁ。
ちと安値ではないの?
シリーズなのだという枠組みを超えられないのかね。
もうひとつ。
ボリビアというクニや人々がムーヴィに引用されるのはいいが、単なる引用なのだ。
観客も30年前の観客ではないし、情報も知識もいろいろと伝わっている。
いくらたかがムーヴィといってもちと軽く扱いすぎてない?
それとも観客はそんなバッググラウンドなど見てないとでも?
アクションとテンポと予想外の展開(そんなのあったかしら?)と女性のウツクシサとボディ。
まぁ、スパイ映画なのだと言ってしまえばそれまでなのだろうが、こ のいろいろな偏見はちと時代錯誤ではないのかねぇ。
鉄砲をもったら撃ちたくなる、という乗りの映画。
まるで乗せられなかったのは、こちらも年とったからかなぁ。
あんまりスナオじゃなくなったってことかねぇ。
もっともDVDでの視聴だからワクワクドキドキが伝わらなかったってことか。
映画館ならもっとメリハリが効いて、耳も目も興奮したのかもしれない、と思わせる程のものはなかったよなぁ。
残っている残像は、ボンド役のスターの顔くらいのもの。
うーむ、やはりボケたか。
あの甘やかなマスクのショーンコネリーに比して今度のボンドのハードボイルド調のマスク。
スター用のムーヴィ。展開の仕方も多分同様なのだろう。
まず引っかかったのは音楽。
イントロで歌われている女性歌手の甲高いヒップホップ。
確かにもうかつてのヴォーカリゼーションでは似つかしくはないのだろうが、もうひとつ本気で考えてほしかったなぁ。
ちと安値ではないの?
シリーズなのだという枠組みを超えられないのかね。
もうひとつ。
ボリビアというクニや人々がムーヴィに引用されるのはいいが、単なる引用なのだ。
観客も30年前の観客ではないし、情報も知識もいろいろと伝わっている。
いくらたかがムーヴィといってもちと軽く扱いすぎてない?
それとも観客はそんなバッググラウンドなど見てないとでも?
アクションとテンポと予想外の展開(そんなのあったかしら?)と女性のウツクシサとボディ。
まぁ、スパイ映画なのだと言ってしまえばそれまでなのだろうが、こ のいろいろな偏見はちと時代錯誤ではないのかねぇ。
鉄砲をもったら撃ちたくなる、という乗りの映画。
まるで乗せられなかったのは、こちらも年とったからかなぁ。
あんまりスナオじゃなくなったってことかねぇ。
もっともDVDでの視聴だからワクワクドキドキが伝わらなかったってことか。
映画館ならもっとメリハリが効いて、耳も目も興奮したのかもしれない、と思わせる程のものはなかったよなぁ。
残っている残像は、ボンド役のスターの顔くらいのもの。
うーむ、やはりボケたか。
『宇宙戦争』 the war of the world
H.G.ウェルズ原作、スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演
映像の緊密度は素晴らしい。
まさにムーヴィ。
登場人物はいただけない。ぼけているか、気が乗らないのか。
子役の少女がいいくらいか。
アメリカの役者の演戯(技?)力にはアメリカ人のモノガタリの信仰が入り込んでいる。
大衆に、ひとりでも多くの観客を引き寄せたいといういろいろな思惑があって『役』を作ってしまうのか。
見る側のイマジネーションが仂きにくいのだ。
モノガタリを脱けるところにオモシロサが生まれるのではないか。
これと関連しているのだろうが<機能的>なのだ。
類型化のつまらなさを外へ逃がすために、音響効果、音楽、大仰なスタントが目白押しである。
これは子供向けのムーヴィなのか。
しかし子供でもこの手のムーヴィを三本も見たらもう付き合ってはくれないのではないのか。
最大の宣伝は映画そのものだろうに。
くり返し見たくなるように引きつけるナニカが一番の宣伝だろう。
しかし分野別問題を正解したところで、ひとつの作品の質が保証されるわけではないだろう。
(機能的といったゆえである。)
さて本題。
「アメリカ」(の独立記念日)に外から敵が襲ってくるというモノガタリ。
1000万年前から地下に埋め込まれたマシンが宇宙人の襲来によって地上で人々の血を吸い取るという設定はずいぶんではないか。ヴァンパイアーばやりの最近の風潮に迎合しているのか。ヴァンパイアーものがたりを含めて考えてみよう。
地下からたまっていた未知の恐怖が地上にあらわれる。
この地下や地面から立ちのぼるものとはなにか。
アメリカの現状。貧困と差別によって鬱屈している不満や怒りは、アメリカの外からだけくるのではない。
まさに下からもやってくる。階級斗争?しかしやっつけられる対象は?
1%の富裕層ではない。アメリカという<クニ>である。
だから<クニ>を守れ、民主主義を守れという風にすりかわっていく。
ユダヤ系資本が1%の人々をたたくわけがない。1%とは自分たちのことだ。
ヴァンパイアーにうつろう。
人間とマシンの中間域に設定されたこのヴァンパイアーは、人間の側面と恐怖(異質性)を同時化した存在である。
吸血鬼がかつてのモンゴル人から由来したというモノガタリは歴史に任せよう。
山の奥の城にこもっている<貴族>が人々の血(生命)を吸い上げるという図式を見て取ればいい。
三本足の巨大な怪獣は、ヴァンパイアー=貴族の属性であるということ、そしてそれが地下のいわば怨念や憎悪に支えられて動いているということ。しかしこれってなにか、ねじれてないか?
恐怖の二重性なのだ。
地下の不安や憎しみによる恐怖感は、地上の権力にとっての恐怖感でもある。
この二つの<階級>の恐怖を外在化して、モノガタリができあがる。外から(下からではない。)異質なものが来襲する。
我々は「アメリカというクニ」の人間なのだという「アメリカ独立」神話に接続される。この筋にもうひとつのアメリカ像が付加される。<家族>モノガタリである。離婚した夫婦のモノガタリはすでに完了している。その子供たちの父祖への、かつての<家族>への郷愁である。これが切実であればあるほどリアルなのだというのは、アメリカの人々の不幸感(あるいは逆に独立信仰)をあらわしているのだろう。アメリカ人にとっての<子供>は、「世界」とつながる唯一のリアルなのかもしれない。
アメリカという<クニ>と<家族>を守るためならなんでも許されるというイデオロギーの散布。
あのブッシュ君の知性はこのモノガタリにピタリと照準を合わされてしまっていたと言ったら言い過ぎか。(注しておけば、逆ではないぞ。モノガタリの方がブッシュ君たちをだ。)スピルバーグの観客がどんな人たちなのかはわからない。(アメリカ人のほとんど?)しかし大なり小なりアメリカ人のマインドに植え付けられている国家と国民のモノガタリはいたるところで変奏され、日々声高に叫ばれている。いや声高ではない。「静かに」だ。音もなく部屋の中に進入し人々をねらって血を吸い上げるあの蛇の美しさと恐怖。
見事なアクション、テンポの速いシーン展開、くり返しくり返し殺され続けるアメリカ市民、地下室に逃げ込む主人公たちと空中に浮いている異星人。垂直軸のたたかいによる巨大モンスターの大きさ。アメリカTVメディアへのクリティック。これらのムーヴィを反転したら「世界のリアル」が見えてしまうのではないのか?
まさにムーヴィ。
登場人物はいただけない。ぼけているか、気が乗らないのか。
子役の少女がいいくらいか。
アメリカの役者の演戯(技?)力にはアメリカ人のモノガタリの信仰が入り込んでいる。
大衆に、ひとりでも多くの観客を引き寄せたいといういろいろな思惑があって『役』を作ってしまうのか。
見る側のイマジネーションが仂きにくいのだ。
モノガタリを脱けるところにオモシロサが生まれるのではないか。
これと関連しているのだろうが<機能的>なのだ。
類型化のつまらなさを外へ逃がすために、音響効果、音楽、大仰なスタントが目白押しである。
これは子供向けのムーヴィなのか。
しかし子供でもこの手のムーヴィを三本も見たらもう付き合ってはくれないのではないのか。
最大の宣伝は映画そのものだろうに。
くり返し見たくなるように引きつけるナニカが一番の宣伝だろう。
しかし分野別問題を正解したところで、ひとつの作品の質が保証されるわけではないだろう。
(機能的といったゆえである。)
さて本題。
「アメリカ」(の独立記念日)に外から敵が襲ってくるというモノガタリ。
1000万年前から地下に埋め込まれたマシンが宇宙人の襲来によって地上で人々の血を吸い取るという設定はずいぶんではないか。ヴァンパイアーばやりの最近の風潮に迎合しているのか。ヴァンパイアーものがたりを含めて考えてみよう。
地下からたまっていた未知の恐怖が地上にあらわれる。
この地下や地面から立ちのぼるものとはなにか。
アメリカの現状。貧困と差別によって鬱屈している不満や怒りは、アメリカの外からだけくるのではない。
まさに下からもやってくる。階級斗争?しかしやっつけられる対象は?
1%の富裕層ではない。アメリカという<クニ>である。
だから<クニ>を守れ、民主主義を守れという風にすりかわっていく。
ユダヤ系資本が1%の人々をたたくわけがない。1%とは自分たちのことだ。
ヴァンパイアーにうつろう。
人間とマシンの中間域に設定されたこのヴァンパイアーは、人間の側面と恐怖(異質性)を同時化した存在である。
吸血鬼がかつてのモンゴル人から由来したというモノガタリは歴史に任せよう。
山の奥の城にこもっている<貴族>が人々の血(生命)を吸い上げるという図式を見て取ればいい。
三本足の巨大な怪獣は、ヴァンパイアー=貴族の属性であるということ、そしてそれが地下のいわば怨念や憎悪に支えられて動いているということ。しかしこれってなにか、ねじれてないか?
恐怖の二重性なのだ。
地下の不安や憎しみによる恐怖感は、地上の権力にとっての恐怖感でもある。
この二つの<階級>の恐怖を外在化して、モノガタリができあがる。外から(下からではない。)異質なものが来襲する。
我々は「アメリカというクニ」の人間なのだという「アメリカ独立」神話に接続される。この筋にもうひとつのアメリカ像が付加される。<家族>モノガタリである。離婚した夫婦のモノガタリはすでに完了している。その子供たちの父祖への、かつての<家族>への郷愁である。これが切実であればあるほどリアルなのだというのは、アメリカの人々の不幸感(あるいは逆に独立信仰)をあらわしているのだろう。アメリカ人にとっての<子供>は、「世界」とつながる唯一のリアルなのかもしれない。
アメリカという<クニ>と<家族>を守るためならなんでも許されるというイデオロギーの散布。
あのブッシュ君の知性はこのモノガタリにピタリと照準を合わされてしまっていたと言ったら言い過ぎか。(注しておけば、逆ではないぞ。モノガタリの方がブッシュ君たちをだ。)スピルバーグの観客がどんな人たちなのかはわからない。(アメリカ人のほとんど?)しかし大なり小なりアメリカ人のマインドに植え付けられている国家と国民のモノガタリはいたるところで変奏され、日々声高に叫ばれている。いや声高ではない。「静かに」だ。音もなく部屋の中に進入し人々をねらって血を吸い上げるあの蛇の美しさと恐怖。
見事なアクション、テンポの速いシーン展開、くり返しくり返し殺され続けるアメリカ市民、地下室に逃げ込む主人公たちと空中に浮いている異星人。垂直軸のたたかいによる巨大モンスターの大きさ。アメリカTVメディアへのクリティック。これらのムーヴィを反転したら「世界のリアル」が見えてしまうのではないのか?
『シビルアクション』
ジョン・トラボルタ.題材は公害問題。市民の訴え、弁護士事務所の交渉、裁判。
人間の生命、権利がテーマではない。弁護士の人格がテーマでもない。
市民派の弁護士事務所と会社の戦いがテーマでもない。市民の個人的な位相と
社会や世界の事実的関連がテーマでもない。アメリカという國の、人間がテーマ
であるというのは正しい。で、アメリカの人間におけるテーマとはなにか。
マネー。すべてのシーンはこのマネーを巡るお話なのである。
アメリカの裁判とは正義とかではなく、マネーがどう動くのかという裁判なのだ。こ
れはすでに裁判所が銀行の代理をしているようなものなのだろうか。ひょっとして
銀行が裁判所の役割をしているとか。
裏と表の世界。
公害問題のふたつの側面。会社の利益と従業員の生活己その土地に代々住んで
いる従業員にとって会社の要求を拒絶することは生活を失うか、他へ流れることを
意味する。利益がすべての会社は他へいつでも移れるのだが、従業員は置き去り
にされるだろう。市民と従業員は同じではない。しかし裁判によって証言を求められ
ればいきなり市民となる。ひとびとのこの二重性は、公害問題の場合はさらに複雑
になる。公害の被害者がその土地に住む従業員であり、裁判で証言を求められて
いる市民もまた同じ従業員なのである。従業員には権利はないが、市民には権利
がある。会社もまた二重性のなかにある。利益を徹底して追求し、自壊してしまうか、
名目を保ちつつ妥協するか。
主題はすでに述べたように市民の行動ではない。マネーゲームなのだ。
アメリカ人には当たり前の光景なのだろう。会社は報酬を投資家へ、給与を従業員
へ。借金、破産かアメリカの夢か。弁護士事務所もまた同様な会社である。生活レベ
ルにある人間、静物、生命のすべてがマネーゲームの内に繰り込まれている。
アメリカンドリームの夢の無残はおいておこう。
アメリカにおける成功、名誉、マネー、ポルシェ、事務所、ハーバード大学、エトセトラ。
これらはいうまでもなくマネーゲームの主要テーマ。弁護士事務所どうしの取引も銀行
を間にはさんで利益をどう配分するのか、和解と妥協がくりかえされる。
ここには被害者と加害者というような裁判の構図が消えている。司法に対するマネー
(欲望)の野放図な肯定、追求が当然と化しているのだ。要はキャピタリズムなのだ。
この状況のなかで、われらがヒーローは正義に加担する。
証人に対する倫理的な道義なのか。人間および生きる根源のところにある生命への
切実な思いなのか。市民派弁護士の映画的解決が残される。
いずれにせよ、1パーセントの富裕層の物語がアメリカンドリームとして絶対的なのだ
ろう。99パーセント層のリアルな貧しいばかりの物語は映画的には大ヒットはしないの
だろう。そうだ、映画もまたアメリカンドリームの路線上をひた走っている。
スターダム、スター、ハリウッド万歳なのだ。
人間の生命、権利がテーマではない。弁護士の人格がテーマでもない。
市民派の弁護士事務所と会社の戦いがテーマでもない。市民の個人的な位相と
社会や世界の事実的関連がテーマでもない。アメリカという國の、人間がテーマ
であるというのは正しい。で、アメリカの人間におけるテーマとはなにか。
マネー。すべてのシーンはこのマネーを巡るお話なのである。
アメリカの裁判とは正義とかではなく、マネーがどう動くのかという裁判なのだ。こ
れはすでに裁判所が銀行の代理をしているようなものなのだろうか。ひょっとして
銀行が裁判所の役割をしているとか。
裏と表の世界。
公害問題のふたつの側面。会社の利益と従業員の生活己その土地に代々住んで
いる従業員にとって会社の要求を拒絶することは生活を失うか、他へ流れることを
意味する。利益がすべての会社は他へいつでも移れるのだが、従業員は置き去り
にされるだろう。市民と従業員は同じではない。しかし裁判によって証言を求められ
ればいきなり市民となる。ひとびとのこの二重性は、公害問題の場合はさらに複雑
になる。公害の被害者がその土地に住む従業員であり、裁判で証言を求められて
いる市民もまた同じ従業員なのである。従業員には権利はないが、市民には権利
がある。会社もまた二重性のなかにある。利益を徹底して追求し、自壊してしまうか、
名目を保ちつつ妥協するか。
主題はすでに述べたように市民の行動ではない。マネーゲームなのだ。
アメリカ人には当たり前の光景なのだろう。会社は報酬を投資家へ、給与を従業員
へ。借金、破産かアメリカの夢か。弁護士事務所もまた同様な会社である。生活レベ
ルにある人間、静物、生命のすべてがマネーゲームの内に繰り込まれている。
アメリカンドリームの夢の無残はおいておこう。
アメリカにおける成功、名誉、マネー、ポルシェ、事務所、ハーバード大学、エトセトラ。
これらはいうまでもなくマネーゲームの主要テーマ。弁護士事務所どうしの取引も銀行
を間にはさんで利益をどう配分するのか、和解と妥協がくりかえされる。
ここには被害者と加害者というような裁判の構図が消えている。司法に対するマネー
(欲望)の野放図な肯定、追求が当然と化しているのだ。要はキャピタリズムなのだ。
この状況のなかで、われらがヒーローは正義に加担する。
証人に対する倫理的な道義なのか。人間および生きる根源のところにある生命への
切実な思いなのか。市民派弁護士の映画的解決が残される。
いずれにせよ、1パーセントの富裕層の物語がアメリカンドリームとして絶対的なのだ
ろう。99パーセント層のリアルな貧しいばかりの物語は映画的には大ヒットはしないの
だろう。そうだ、映画もまたアメリカンドリームの路線上をひた走っている。
スターダム、スター、ハリウッド万歳なのだ。
『ソフィアの夜明け』 ブルガリア
ソフィア市、人々の日常、不安、貧困、暴力
前半はもたついているが後半から印象的な映像。
トルコ人への右翼の連中の暴力のシーンから少年、青年、女性がスッと入ってくる。
街中のストリート、夜明けの美しさ。
つまらぬモノガタリに随していない。
※東京映画祭三賞受賞。
前半はもたついているが後半から印象的な映像。
トルコ人への右翼の連中の暴力のシーンから少年、青年、女性がスッと入ってくる。
街中のストリート、夜明けの美しさ。
つまらぬモノガタリに随していない。
※東京映画祭三賞受賞。
『ティファナ』 メキシコ
スキがいっぱい。
ギャング映画の定式。
権力と裏切りと陰謀。
CIA、アルカイダ?、麻薬。暴力。
カットが短いのはいい。
人の顔もいい。
娼婦の女性もいい表情。
ムダ口はないが、焦点が散っている。
ギャング映画の定式。
権力と裏切りと陰謀。
CIA、アルカイダ?、麻薬。暴力。
カットが短いのはいい。
人の顔もいい。
娼婦の女性もいい表情。
ムダ口はないが、焦点が散っている。