ドイツ映画 『レボリューション6』 DVD、
『バーダーマインホフ』の<闘争>に比して、 この「革命」への懐古(回顧?) 趣味はつまらなかった。 11年前の 「革命」(劇) の後の6人の男女の生き方。 当時のフィルムが警察に押収されたのを機に再び奪還のために集まってくる。 昔の仲間の<現在>を問う映画化と思いきや、 <友情>や<仲間>、かつての<夢>への時間にすがっている映画。 たしかに警察という権力の内に爆弾を仕掛けたり、 放水車で警官たちを蹴散らしたりと、いかにも反権力のスガタを見せる。 だが、「右や左というものは、とっくに瓦解しているんだ」と言う警部(?)に反論ひとつできない。 ここら辺から一気に懐古へなだれてしまう。 しかし本当は、「現在」いまだ解決しえない問題は続いている。 右や左がグチャグチャになったとしても、上と下の格差や権力と不正義が消えたわけでもあるまい。 かつての<革命>への視線はいい。 なぜ<革命>が必要だったのかを記憶するのもいい。 だが同じスタイルでは、動いている社会をつかまえることはできない。 <革命>劇のカクメイが必要だったのではないか。 反感や憎悪だけで共闘しえたのは、個々人の心情によってではないだろう。 時代の要請なのだ。 時代が変わったのだ。 新たなカタチが求められたのだ。 かれらに欠けたのは、この新しい方法を見つけることではなかったのか。 「成り上がり」や離反したことには何の意味もないだろう。 1968年、5月の「記憶」 はモノガタリになって解消したわけでもあるまい。 かれらがすべきは、自分たちの 「モノガタリ」 を解体することではなかったのか?
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さらにつづき。
寺田寅彦の 「天災は忘れたころにやってくる」 について。 目下の危険が去ればまたぞろ金、金、金の亡者がやってくるという一節がつづく。 (孫引きで不正確だが意は間違っていまい。) そして、ふたたびみたびの天災がやってくる。 愚かしい限りなのだが、人々はなぜ高台から低地へ戻ってくるのか。 防潮堤への信頼、安心の故なのか。 恐らくそういうことではあるまい。 <生活>はいつだって目下の現実なのだ。 遠い (かどうかは不明だが) 先の危険よりは、今の生活が低地へ引き寄せるのだろう。 忘れたわけではない。 いつだって念頭にある。 だからここに欠けているのは、<政治>なのだ。 <生活>を守るべき<政治>が不足(?)、欠落しているのだ。 問うべきは、この<政治>の質なのだ。 誰が問うのか? 言うまでもない。私たちがだ。 前回の続き。
東北地方の人口流出は3.11以前からであり、 若い人が外に出て、老人が残されていく。 この<貧困>化の土壌に<原発>が救世主としてやってくる。 しかし東北の何を救ったのか。 貧困?日常? 何をつぶした? 何を奪ったという問いといっしょに考えるべきだろう。 東北の再生では、同じ道を歩むことになる。 新たな価値の発見が必要だろう。 「現状」 は歴史的、地理的に、そのモノガタリの構造に応じて把握すべし。 東北の歴史や地勢を 「日本人」 が理解することが急務だろう。 そのとき 「何が見えてくるか」 、やっかいなモノが浮上するかもしれないぞ。 キャピタリズム。
キャピタル=首都。 首都へどんどん流入する資本のさらなる増殖。 東北の<位置どり>。 日本の産業構造の中では、いつまでたっても developing country (発展途上の国、地方) なのか。 フクシマ他の 「原発」 構造は、その象徴なのか。 30年、50年、100年たっても途上国のままなのか。 人と物が集められ、カネが落とされる。 目先の 「日常」 はこうして保たれている。 しかし東京からの資本が回収し奪っていくマネーは、 億兆円となって大都市へ還流する。 金も情報も東北に蓄積されない。 都市の独占である。 この構造は 「植民地」 そのものではないか。 自転車の続き。
自転から外に広がっていくものがある。 まずは道路、地面への<信頼>が生まれる。 これもコトバの中に入ってはこないが、 身体を通して吸収される。 <世界>はでこぼこであるが、人が走るのに応じて、 ずっと平坦に続いている。 <世界>はつながっているという感覚がある。 スピード感のはなし。 スピードに応じて周囲の表情や<意味>が刻々と変化する。 ワンダーオブセンス、センスオブワンダーから 新たな世界が身体の内や外から生まれてくる。 ニューワールドのワンダーランド。 あっ、こけた。 イターッ。 ヌヌヌ。 何も考えずに走るべし。 自転車のはなし。
人間とマシンの50:50の関係。 人が50でこぐと50で動く。 このフィフティ フィフティの感覚が快い。 力の加減でマシンもそれに応じる。 相互性とでも言うべき関係ができる。 これは人の身体感の延長上にある<信頼>ではないか。 自転車は人がトータルに理解できるマシンなのだ。 人が目で見てわかる「合理性」そのものである。 このシンプルな仕組みやカタチが、 人の身体感覚をゆさぶるのである。 人間の力を超えてしまう「動力装置」は 別種の<世界>を妄想してしまう。 原罪がひとりで荷う罪なのだとすると、
人類65億人の頭上にあって炸裂する原子爆弾の脅威は誰が荷うのか。 恐らく人間には無理なはなしだ。 神を引き出すべきか。 神について話すとすれば、ここから<神>については述べるべきだろう。 某国のプレジデントたちの出る幕ではない。 井上ひさし 『父と暮らせば』 読後。 広島弁のなんというか深さ、おもしろさ優しさetc.に感動。 『仁義なきたたかい』 の「実存」は、 深作、この 『父と暮らせば』の広島弁は井上ひさしの手柄。 ブドウ、ナシ、クリ、イチジク。
秋。そして柿がくるぞ。 クダモノというモノではなく、果実(かじつ)なのだ。 視て触って食べる。 食感が呼びだす遠い記憶、その日々の空模様までもが戻ってくる。 共にいたヒトやイヌ、ネコ。 脇を歩いていたアリまでもが、やってくる。 果実は、人の自然の中に <自然>(ジネン=ひとりでにそのようになる)を誘発する。 これらの果実の甘味を記憶せよ。 『デジデリアム・インコグニチ』
未知なるものへのあこがれ―『梅棹 忠夫 語る』最終ページ、最後のことば。 一読を。「日系プレミアムシリーズ」 (850円) 暑い日が続く。
入道雲ではない。 秋の雲というのでもなく、 なんとなく崩れかけたカタチがポツポツ浮かんでは流れていく。 ん?何の話だって? ハハハ言うまでもなく、○○○の話しだ。 なぜみんなスグにわかってしまうのだろう。 そこが大問題の箇所。 (えッ、「オレわかんないぞ―」) |
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