「原子力委員会」、「東大」などというネームの抑圧的バリューに当の委員会や東大はどう感じているのだろうか。
東大名誉教授という肩書きで退官後の仕事をしている彼らをサポートしているわけではあるまいが、仲間なのだという同族意識やプライド(?)が世の中にどう見られ、感じられているか、ひょっとしたら勘違いをしているのではないか。 東大ほどの知性をほこる所の住人なら「ネームバリュー」で職に就く必要はないだろう。 アメリカ映画にあらわれるハーバード大の「尊大」な学閥(=財閥)意識への揶揄はよく眼にするところだが、東大閥やネームバリューへのメディアやムーヴィ監督の<ちょっかい>は聞いたことがない。 相手にする程のこともないということかも知らないが、世間の常識は一枚舌ではないこと、もうひとつの舌がちらちらちろちろと動いていることを知ったほうがいい。 ムーヴィディレクターはどこを見ているのだろうか。 こんなオモシロイ題材を「三谷」君に独り占めされていいの?
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TVはいざ知らず、ムーヴィの「世界」にはずい分と死者がいっぱいになった。
死んでもまだこの世に出てくるゾンビさんがうようよ、うろうろしている。 (某政党の某君のことではありません。) 私たちの恐怖感もずい分変質したのだろう。鈍感になっただけ? さて、最近のDVDで立て続けに、死体を解体するムーヴィを見ているのだが、映画界の流行(はやり)なのかね。 殺すことが問題ではなく、人間の体を解(ほど)いてしまうのだ。 なにか精神もまた解かれているのだろうか。 いたるところで閉塞感がついに極点にまできたということだろうか。 死体の解体の先にはもうモノガタリの強度は0に近いなにか寒々としたものが漂っているらしい。 恐怖心はどこかでエロスに通じる風であってほしいのだが、ギャーギャーとうるさい音(声ではないぞ)ばかり。 彦六師匠の怪談話がスゴイなァっと思えたのは、「艶」があったからなのだが、 もう時代も世相も来るところまで来てしまったということなのだろうか。 映画とTVの強度の差が歴然としている。
昔からそうなのだといわれれば確かにそうなのだろうが、ここに来てかなりアカラサマになったのではないか。 注意、映画は邦画を指していない。 日本映画は一部を除いてTVの延長のように見える。 内容が空疎というのではない。 <カメラ>が道具的に走り回っているという点が同種なのだ。なぜなのかはイマは定かではないが、空気が抜けている感じなのだ。TVも映画も単なるミステリーでなくミストリーに近い。いかにも嘘くさいシーンにその本質的な状況が見えている。リアルを真似ることにさえ力が入りすぎて、役者の<顔>をそろえただけの画面になっているのではないか。 演ずること、表現することが消えている。 不要な音楽や過大なそして奇矯なシーン、身振りが横行している。 話が流れた。 日本の<表現>シーンのなんとも情けない状況に比して、外国のムーヴィの力の入った映像には<強度>、<世界>に向き合う強い意欲がある。 外国の映画の進歩や進化は、今ある現実の画線の上を滑ってきたものではない。 <世界>を日常や非日常のなかに発見してきたものである。 そうとうに大きな打撃をボディに受けている。このボディブロウに耐えるようにして見いだされたモノが表現の技術を要請しているのだろう。 イマ 「ムーヴィ」 はおもしろい。 |
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