☆ 合格体験記 ☆ ~事例集~
◆集中力は背水の陣 「受験勉強は、なんのため?」
合格ラインをクリアすれば、「受験勉強」は合格であるという考えが通るのは、せいぜい大学入試くらいのもの。
中学、高校入試の「受験勉強」は、もっと奥行きのあるものにしたい。
ある生徒の話をしよう・・・。
O君、中学3年の1月の末、最終的に受験校を決めて、内申書を提出してもらう一週間前のこと。
本人は、「水戸一高=受験校」として学校の先生にも私(塾長)にも書類を出してきました。水戸一高の最低合格ラインは、当時460点~465点で内申合計39以上というもの。本人の実力テストの上限は420点前後、内申合計は32。この数字に当てはまる、男子が通学できる普通県立高校は「桜の牧高校」。この高校ならばトップ圏を狙って楽に合格できる。多分学校の先生も私もこの高校のトップの座を狙うことを考えていました。しかし、本人の意思は「水戸一高」受験だけ。他の選択は全く念頭にはなく、毎日のように私の許可を要求してきました。しかし、私は「ダメ」の一点張り。涙をこぼしながらの訴えにも私は耳を貸しませんでした。
私立の受験校にも合格していましたので、保護者のお父さん、お母さんも「水戸一」受験を許してほしいと再三私に懇願しましたが、私は各高校の入学後の3年間を考えて県立合格にこだわり、拒否していました。私には「私が壁にならないで誰がなる」という思いがありました。とうとう学校の先生が高校への内申書を提出する前の晩になりましたが、私は「ダメ」、彼はむせび泣いて帰っていきました。なんともつらいシーンでした。
翌朝7時、彼の学校の先生から電話がかかってきました。
「私は今、ここに2つの高校の内申書を用意しています。先生がOKを出してくれるなら水戸一高の内申を、ダメなら桜の牧高の内申を持っていきます。もう一度考えてやってください。」本人は電話の脇で泣いていました。本人に代わってもらうと「お願いです。水戸一高を受験させてください。」と涙声。その時私は、初めて気づきました。受験勉強を私が彼らに強いたことの本来のイミが何であったのかを。
すでにこの時、O君にとっては、合格か不合格かは問題ではなかったのです。受験を通して彼が学んでいたのはもっと奥行きのある「生き方」としか言いようのないものだったのです。彼はもちろん自分の得点能力も、内申点合計も、それで受験してその結果がどうでるかも十分わかっていました。しかし彼にとって「水戸一高受験」は勉強の一通過点に過ぎなかったのです。合否の結果がすべてではないことを彼は十分に分かった上で受験勉強を続けてきたのです。目標へ向かって努力することの<意義>を理解し自分のものにしていたのでしょう。うかつにも私は彼を侮っていたのです。私の経験や浅はかな知恵をすでに追い越してもっと先の所に立っていたのです。私にはあんなにも執拗に「水戸一高」受験にこだわっていた彼の真意が見えなかったのです。「ごめん。悪かった。受験しなさい。」
それからひと月、正味30日、私が指示したテキストの全問題演習8冊をやり遂げて受験。内規により480点を超えれば内申点は問わないという合格でした。彼が合格した理由は、単にラッキーだったわけでも、その1月末の時点で実力があったからでもありません。ひと月足らずのほとんど不眠不休ともいえる集中力と意志力の何とも名付けようもない高揚した時間が日に日に膨れ上がっていったからなのだと思います。付け加えておけば、小5の時から「まっすぐに(すなおに)」指示された課題を不十分ながらも丁寧にこなしてきていたからなのだと思います。勉強の芯のところにこの「すなおさ」に応えるものがあるのです。
そうです、「生きていくこと」の大事な「根」があるのです。
さて、その語のO君、水戸一高でも30番以内をキープ、東北大学大学院を修了し、ソニー研究所の研究員となってドイツへ派遣されています。
合格ラインをクリアすれば、「受験勉強」は合格であるという考えが通るのは、せいぜい大学入試くらいのもの。
中学、高校入試の「受験勉強」は、もっと奥行きのあるものにしたい。
ある生徒の話をしよう・・・。
O君、中学3年の1月の末、最終的に受験校を決めて、内申書を提出してもらう一週間前のこと。
本人は、「水戸一高=受験校」として学校の先生にも私(塾長)にも書類を出してきました。水戸一高の最低合格ラインは、当時460点~465点で内申合計39以上というもの。本人の実力テストの上限は420点前後、内申合計は32。この数字に当てはまる、男子が通学できる普通県立高校は「桜の牧高校」。この高校ならばトップ圏を狙って楽に合格できる。多分学校の先生も私もこの高校のトップの座を狙うことを考えていました。しかし、本人の意思は「水戸一高」受験だけ。他の選択は全く念頭にはなく、毎日のように私の許可を要求してきました。しかし、私は「ダメ」の一点張り。涙をこぼしながらの訴えにも私は耳を貸しませんでした。
私立の受験校にも合格していましたので、保護者のお父さん、お母さんも「水戸一」受験を許してほしいと再三私に懇願しましたが、私は各高校の入学後の3年間を考えて県立合格にこだわり、拒否していました。私には「私が壁にならないで誰がなる」という思いがありました。とうとう学校の先生が高校への内申書を提出する前の晩になりましたが、私は「ダメ」、彼はむせび泣いて帰っていきました。なんともつらいシーンでした。
翌朝7時、彼の学校の先生から電話がかかってきました。
「私は今、ここに2つの高校の内申書を用意しています。先生がOKを出してくれるなら水戸一高の内申を、ダメなら桜の牧高の内申を持っていきます。もう一度考えてやってください。」本人は電話の脇で泣いていました。本人に代わってもらうと「お願いです。水戸一高を受験させてください。」と涙声。その時私は、初めて気づきました。受験勉強を私が彼らに強いたことの本来のイミが何であったのかを。
すでにこの時、O君にとっては、合格か不合格かは問題ではなかったのです。受験を通して彼が学んでいたのはもっと奥行きのある「生き方」としか言いようのないものだったのです。彼はもちろん自分の得点能力も、内申点合計も、それで受験してその結果がどうでるかも十分わかっていました。しかし彼にとって「水戸一高受験」は勉強の一通過点に過ぎなかったのです。合否の結果がすべてではないことを彼は十分に分かった上で受験勉強を続けてきたのです。目標へ向かって努力することの<意義>を理解し自分のものにしていたのでしょう。うかつにも私は彼を侮っていたのです。私の経験や浅はかな知恵をすでに追い越してもっと先の所に立っていたのです。私にはあんなにも執拗に「水戸一高」受験にこだわっていた彼の真意が見えなかったのです。「ごめん。悪かった。受験しなさい。」
それからひと月、正味30日、私が指示したテキストの全問題演習8冊をやり遂げて受験。内規により480点を超えれば内申点は問わないという合格でした。彼が合格した理由は、単にラッキーだったわけでも、その1月末の時点で実力があったからでもありません。ひと月足らずのほとんど不眠不休ともいえる集中力と意志力の何とも名付けようもない高揚した時間が日に日に膨れ上がっていったからなのだと思います。付け加えておけば、小5の時から「まっすぐに(すなおに)」指示された課題を不十分ながらも丁寧にこなしてきていたからなのだと思います。勉強の芯のところにこの「すなおさ」に応えるものがあるのです。
そうです、「生きていくこと」の大事な「根」があるのです。
さて、その語のO君、水戸一高でも30番以内をキープ、東北大学大学院を修了し、ソニー研究所の研究員となってドイツへ派遣されています。
~卒業した先輩たちの合格体験記を紹介します~
♀筑波大学 生命環境学群 生物学類2年♀ 戸祭森彦
原稿依頼をいただいて、初めは合格体験記を書こうと思いました。
合格体験記というのは大学に合格した際の勉強法を語るものだと思います。
ですが、私は大学受験で筆記試験をしませんでした。
なのでrこんな勉強がオススメ!」と紹介できるものが無い事に気づきました。
なにより勉強法が知りたいのなら、 『KIRIN-DEN』を読んで頂いた方がより適切かと思います。というわけで、私が麒麟塾で学んだことをご紹介しようと思います。
私が初めて塾長に教わったのは、springという単語の意味でした。
普通r春」やrバネ」といった意味が浮かんできますが、これにはr泉」や「原動力」と いう意味もあるのです。それはspringが「急に動く、跳ね上がる」という原義を持つことに起因します。すると一見「春」という意味は原義に沿わないように思いますが、冬につもった雪の下から力強く「飛び出て」くる植物の芽はあたたかな「春」を象徴しています。
思えばクルミの殻の割り方を覚えたのも麒麟塾でした。クルミなんて中身が食べられればどんな風に割っても同じでしょ、という方もいると思います。しかし、綺麗に割るという過程によって、より多くの実を食べたりその後飾る為の処理が効率よくできたりするのです。勉強も生活も同じだと思います。
今思うと、勉強よりも生き方、考え方を教わったような気がします。
信州大学 人文学部 斉藤智子
私が麒麟塾で得たものは単に勉強の仕方ではなかったように思います。世界への入射角のいれかた、とここでは言っておきます。私が麒麟塾に入ったのは中学3年の夏休み明けで、高校受験、大学受験とお世話になっていますが、常に新しいやり方を発掘してくる先生たちにはいつもわくわくさせられていました。塾の本棚には面白そうな本がいっぱいあって、壁にはよくわからないけれどいろんなものが貼ってあって。後から思えば、考える材料になるものが教室にはあふれていました。
中学3年生だった当時、私はなかなか思うように点数が伸びずヒステリック気味でありましたが、ユニークな教材と授業で、それまでの“勉強する"ことへの義務的な姿勢から解放され、もつと知りたいから“勉強する"ようになったことを覚えています。
新聞のコラムの切り抜きと要約は、ためになりました。塾長に教わった時は正直固い文章っぽくて乗り気ではなかったのですが、やっていくうちに世間ではどういうことが問題として認識されているのか知ることができ、知らず知らずのうちに自分で考える機会を得ていた、と後になって思いました。様々な本や文房具の紹介、先生たちの面白い話、いろんな視点からの考え方など教わったことを挙げればきりがないです。3階にある教室から見る夕焼けはきれいだし、先生が入れてくださるコーヒーはおいしいし。寺子屋感覚で通っていました。
この塾に通った6年間は、私にとって非常に重要なものです。