高橋源一郎、朝日新聞、論壇時評、オピニオンの眼の持っていき方、つけ所がいい。
4/26版のページのとなりにある、小熊英二氏の「あすを探る」、「原発コスト国民意識に比例」もgood、朝日のこのページは待ってて読むようになった。 他は・・・。
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ウディ・アレン 『人生万歳』
これはムーヴィではない。モノガタリである。 しかもかなり手あかにまみれ、もう誰も聞いてくれそうもないシロモノ。 モノガタリの展開が読めてしまうからではない。 人物たちの役割があまりにも役的だからでもない。 ひとことで言うなら、映画という主体に自己意識がないのだ。 人物たちの自己意識も、役をくずしてしまうほどのdeepなところへは降りていかない。 「こんなもんでいいだろう、どうだ、オモシロイダロ?」 ウーヌです。アレンの知性がモノガタリに依りかかってひからびてしまったのか。 老教授のタワイない天才おしゃべりにはイイカゲン反吐がでる程。 ジャパンのスポーツ解説者しかり、なんなのだ、「ことば」会話のこの下品さは。 「黙れって言うの」ん?(誰?) 『君を想って海を渡る』ってなんだ?
フランス映画の原題は 『welcome』、 映画の内容からおして『君を想って・・・・・』というようなメロドラマじゃあるまいし、担当者は、パープリンか。 『扉をたたくひと』 アメリカ映画の原題は 『visitor』 なんともヒドイ邦題である。 10点評価で言えば1か1.2のはなし。 小学生からの「American」の10数年間の成果がこれなのだ。 話せる英語?まったくそれ以前の教養レベルが1とか2の世界ではないか。 visitor,welcomeという原題の持つ奥行きが、(意味ではないよ)まるでくみとれていない。 映画はここが入り口だろうに、もっとましな人を配置させるべき。 まァ映画マニアはいるのだろうが、愛好家はいないということか。 映画でなく産業でしかないのか。 スピルバーグ 『ミュンヘン』。
見のがしていた。 パレスチナ問題はイスラエル問題と同じ地平にあること。 それはまた<対立>(を必要とする)クニグニの問題である。 米国のみならず、<マネー>の自己増殖の仕かけ=経済であり、人を殺していくもののイデオロギーでもある。 オリンピックが<たたかい>と<マネー>のゲームであるのは、オリンピックの外側の現実とまったく同一の地平に成り立っているからである。 CIA,KGB、モサド、黒い九月、これら国家の機動部隊はまさに<マネー>に媒介されるイデオロギッシュな組織である。 個々の<事件>やその背景をあぶり出すだけならスピルバーグはいらない。 このフィルムには、人間のどうしようもない<不透明さ>がある。 三寒四温ではなく、一進一退の春。
朝晩の<寒さ>、(ヌヌ、年とっただけなのか?) <穀雨>を過ぎて、若芽から若葉へ。 あの若葉もまた<透き通る>ような色合い。 小さきもの、若きもの、愚かなるものなべて<美し>。 (愚かなものとは、賢くないもの、鈍であるもの、十一の評価とは無縁なもの、たとえばホラ、あなた。) しかし長年人間やっていると、ちりやあくたいが積もって透明感が消え、重く沈んだ色合いにまみれてしまう。そうか、だから春は<美しく>思われるのか。 (ダガ心身が洗われることもなく・・・) 透きとおるようなサクラの花弁、柔らかな春の訪れか。
喜びや悲しみの痛点となるサクラ。 なぜか?多分サクラの<ヤワラカな風情>が人の完成域にスッと入ってくるのだろう。 一木の桜でも、桜の森でも、人はココロを少し広げて空の大きな広がりの宙宇を眺めている。見るのでも、観るのでもない、ましてや疑っと見つめるのでもない。 ナガメているのだ。ナガメは景の風情でもあり、、ナガメルは人の側の<景>とたわむれる姿勢でもある。景につつまれているここちよさが春の風や空気ともども人をひきつけるのだろう。(しかし人混みやおしゃべりのなか、なかなか<春の桜>には出会えない。「祇園をよぎる桜月夜、こよい合う人みな美しき」(晶子)うぬぬ。) 香川照之氏のNHK番組、
「京劇への・・・」、3分間の舞台のために十年の訓練、 京劇のトンデモナイ訓練に絶句。 「型」を作るのにどんな努力が必要だったのか、 オドロキを通りこして、型の成立そのものに擬擬。 悲惨と労苦、徒労と絶望の中にはさまってただ呼吸をくり返している日々。
ただ心身の軽さへのかすかな希求とぶれていく感覚にもたれるようにしてトキが過ぎていった。 運命共同体、クニとはなにものなのか。論理の中の非論理も、ともに跳躍なのだ。着地点などあろうはずもない。クニとは幻想なのだ。 現実を越えるのは、ただ現実によってである。想像力の<質>が問われるのは、この現実によってである。 |
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