芥川の『羅生門』・・・『門とはなにか』の文章をUPしたら、
たまたま『芥川の遺書』を読むことになった。 『ぼんやり』ということばが特別な響きになって戻ってきた。 『存在』(生きてること)へのある繊細な距離のとり方のことなんだと思われた。 彼のこの感じ方は、論理の整合性や感覚的な触知ではないのだと思う。 結局はことばのイメージ肥大とでも言ったらいいのか、 理知のことばの進行はとめられないが、 そこから抜け落ちていく存在への共感でも嫌悪でもないが、 あるキョリの感覚があって、 そこに『ぼんやり』という身体的心的(心体的か)なおもりが落ちたのだろう。 『あるぼんやりとした不安』は、近代人の心の底にいつも漂っているのだろう。 問題はこの『ぼんやり』へのきょり(感)のとりかたなんだろうね。
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