最近、スーパーの野菜がひじょうに安い。なぜ?
薄利多売?品余り? 作っている人のところへ還元されているのかしら。 確かにリンゴもニンジンもカタチはいろいろだが、 たくさんのモノが出回っている。 モノはあるようだが肝心のマネーがない。 メガバンクが吸い取っているのだろうか。 台湾ニンジン6本入り30円。 いったい原価はどうなっているの?(ハハ、余計な心配か。)
0 コメント
寒い風が吹き荒れている。
台風が去ったというのに晴れ間もなく、梅雨入り。 地震といい、原発といい、台風、梅雨、あとは何だ? 政権交代? もう誰も驚かないぞ。 寒いだけだ。 選挙カーが走る。
喚く、叫ぶ。いまどき往来でがなっているのは、首長(くび長)族ばかりである。 他のものより首ひとつ長く伸ばしてオメく。 右翼のお兄さんたちももうとうに引いてしまっているのに、 この種族はどんな理想、利権にとりつかれたのか。 市民、国民、県民のために献身する?どこに国民、県民、市民がいるというのか。 村人がいるばかりの日本に<市民>とは何なのだ。 為にする献身?ほとんど誰も未来の時間を失っているなかで、 希望を語るのはタレントまがいの道化である。 TV画面に引き出されてくる識者や タレントと化したアナウンサーの顔や<真剣>そうな口調。 いつも同じ健康な画面はフィクションだろうに。 虚構の国民、市民の健康、正常願望って歪んでないか? そうか、TVに捕まってしまった国民市民に首を伸ばしていたのか。 話がずれてしまった。 選挙カーのうぐいす嬢の『芸のなさ』を書くつもりだった。 パーチクパーチクと同じことばを連呼するのは、『ひばり』ではなかったか。 あの甲高いマイクからヒバリ嬢の声も後半はカラスになっているのは愛嬌か。 せめて70歳以上のおじさんあたりに、ゆっくりと話をさせたら TV市民の耳に届くだろうに。 (おばあさんはがんばってしまうから避けたほうがいい。) もっとも首長君たちもTVピープルも選挙が終われば、 ほっと安心、静かになってお互いの顔は誰ひとり記憶はしていないようだが。 TV市民は、平和や救済のかけ声では踊らない。 パフォーマンス、TVタレントや役者の顔で動くのだ。 『おもしろい』、『あ、知ってる、見た見た』の中に、求められているのは<芸>である。 『劇』をやったり、見たりする才能はもう向こうにもこっちにもないことは、 お互いに承知の上。 芸でいい芸で。 泣きはらした眼をして、小学生の女の子がくる。
リレーでラストになったくやし涙。 クラス全員でイスをけったり・・・して泣いた。 ひたむきさ、すなおさ。 大人には心の中をストレートに表にだすことはなかなか許されない。 TVタレントやスポーツマン(?)がファンや画面の中で「泣いて」いるのは・・・だ。 (伏字は補って読む。) 頭に血が集まって興奮している。 冷静な判断力が欠けるのはいたしかたない。 しかしこれは危ない。 一人ならこれほどの興奮をかき立てられることはあるまい。 多分一種の「集団ヒステリー症状」なのだろう。 なぜ小学生がこのような『モノガタリ』につかまってしまうのか? 『真剣』な心のあり方はいい。 だが『真剣であることはいいことだ』というモノガタリは危険だ。 モノガタリが増殖させる<正しさ>は、記号にすぎない。 正しさは個々の心の中で拝されているべきものだ。 集団の中で共有される<正しさ>は記憶の中でさらに増殖し、いつか破裂する。 小学生の女の子のいじらしい涙から 『パレスチナ』戦争の悲惨を引き出すのはいき過ぎか。 『くやしい』という感情は『事実』なのか。 『ルサンチマン』による『眼には眼を』『歯には歯を』が 世界になにをもたらしつづけているのか。 政治的にこの感情をあおった米の前プレジデントも、 上手く米市民にとりいった現大統領も現存する。 集団的であること、正しさという<記号>、 すでに幼いココロに植え込まれているモノガタリ、これこそ恐怖。 ヴィム・ベンダース監督『ファミリー、アメリカの風景』(DVD)がでてきた。
どの位前にか映画館で見てひどく引き込まれた。 TVからのダヴィングでDVDにとっていたのだ。 後日UPすることにしよう。 『エイリアン』NHKで近日に流すそうだ。ぜひ一見、必見。 ベンダース監督の『パリ・テキサス』は探してみること。 映画、家族、アメリカ砂漠いろいろと考えることがあるよ。 病室で隠然たる力を持っている主は、死にいちばん近づいた病人。
重病人の言や『重し』なのだ。 この言でいけば死んだ人の言がいちばん重いはずだが、 ハハハ 『死人に口なし。』と笑ってばかりいられない。死んだ人の言いたかったこと、 沈黙の中のことばを拾い出すことは生きているものの仕事なのだ。 とは言っても、『沈黙』の中のことばは 錘りとなって生きているものの胃の中、心の中にまっすぐ降りてくるのだ。 身体の滅びとともにイメージは増大し強大になり巨大化するのだ。 うーぬ。これでは、生きているものはその負荷に耐えられない。 やはりどこかへ祀らねばならないのだ。 極楽、浄土、天国も地獄も死んだ人のためではなく、 生きているものの為のものなのだ。 ここ二日ほど、日本の学者や経営トップや政府の官僚、
政治家は言うに及ばずリーダーと目される人たちの力量が あからさまになったときもなかっただろう。 そういう意味では、地震も原発も悲惨で不幸な出来事だけれども 「ニホン」というものがどの程度のものかを見せてくれるのに 大きな役割を荷ったといっていい。 日本人の底力とか、団結力とか、そういう話ではないが、 子供に限らず日本人には未来がないのだと痛感させられた。 『途上国の子供にはなにもない、ただひとつを除いて。つまり希望を除いて。』 と村上隆の言。 『日本の子供にはなんでもある。ただひとつを除いて。つまり希望を除いて。』 日本では『希望』ということばも重すぎるか、軽すぎるのだ。 弔う。
しかし死者というものはいない。 記憶の中で〈触る〉。 私たちの方が水の船で流れていく。 忘却されるのは、故人ではあるまい。 故人を送った私たちの方なのだ。 私たちは泥の船の中に沈んでいく。 だから忘却のための儀式が必要なのだ。 若山牧水44歳。酒に没する。
アルコール中毒の生涯。 ひたすら『不幸』な人生としか言いようがない。 かれの作品の澄明な感じは、日本酒に通じているのか。 酔うために飲む酒はいい。 しかし、正気を保つために飲む酒はつらい。 ディラン・トマス。朝からビールづけの詩人。 誰しも酔っている。 できるなら木とか花とかの方へ身を傾けていきたいものだ。 ミュージックならさらにいいか。 なぜ荒れる、ココロよ。 先日、DVD店でのこと。
18歳未満立ち入りダメのコーナーから出てきたら、 その外にいた中学生2人組が言った。 「早く大人になりてぇ。」 いいねぇ。このスナオさ。good。 (カゲの声 「何借りたの?」) |
小・中・高校生 学習塾
|