ついにと言うべきか、やっとと言うべきか、歩主対革新という枠組みが費えた。
保保になったわけではない。保守はもっともっと全力的なものだ。 「鏡の国のアリス」を引用する。アリスとハートの女王がゴールまで全力で走る。アリスが言う。「あれ、ここってスタートしたところじゃないの?」 「鏡の国では全力で走ってスタートを「保守」できるのです。」とハートの女王。 現在置(地)がどこにいるのかもわからない世界の中をクラゲのように(アシカビのようにか)漂っているクニにあって、どんな定点観測船も流されるのだ。 スタート地点も定かではないが、全速力でソコへ戻ろうともしないクニ、自らのクニの起源、スタートさえ、湿気てあいまいなまま漂っているクニ、問うべきは、現在の不都合ばかりではない。起源の秩序づけから問うべきではないか。 このクニの政治もまたマイナスの世界なのだから零地点へ、スタートへ、1から始めるしかないだろう。「不思議の国のクラゲ」、まっすぐ前を見ることが出来るかどうか、まだ走る気力、体力があるかどうか。希望と未来が分離して久しいが、まだまだ「おマツり」は続く。政り=祭りの祭政一致ではなかったか、「王政復古の大号令」から明治の「維新」は始まった。大きな政りごとをする人、太政官の登場?(橋下慎太郎君ではないぞ)
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