ダイハード4。
この映画の<騒々しさ>はスゴイの一語。 音も音響も、シーンの派手な破壊も、 スピードもその展開シーンの速さもさすがに前作までのラインを超えている(のだろう。) とにかく「説明」などはない。 次々と展開する。 しかし、言うまでもないが、観客は説明などなくとも十分に知っている内容なのだ。 この映画は、<現実>をデフォルメして追いかけているだけなのだ。 だから人物がどうのこうのといったまだるっこしいものはない。 主人公のスーパーマン的アクロバットが繰り広げられるだけでいい。 この<騒々しさ>を駆り立てるものは何なんだ? なにもないという空白感なのか。 新聞の全面広告に登場する女性たちの空白感は意図された無なのだろうが、 このダイハードもまた、<人間>の肉体(への感受性)の無を意図しているのだろうか。 ダイ(死)の無機質化が極まったということなのか。 観客の承認を待っているムービー。その巨大な空白に何が落ちてくるのか。 人間の死の、その空虚を埋めるための、「映画」なのだとしたらその意図は十分に伝わっている。 テーマや展開の嘘くささやむじゅんなどなんでもない。 ただ<死>ばかりがはねている。
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