キーワードは0ゼロ、ゼロコーク、ノンアルコール ゼロ%、飲み物ばかりか日本中が"ゼロ"気分。シリアスな事件も事故もみんな零へ。政治も経済もゼロへ。
ウーン、「忘却とは忘れ去ることなり」(菊田一夫) ゼロをかける。すべてゼロ。この魔法がこの国の全域をおおっている。 TVも学校もゼロ。なんか楽しくなってきたね。 (ことのついでだ、借金もゼロってな訳にはいかないか。平成の徳政令?)
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ウグイスの鳴き声がやっと一人前になった。
朝方「ホーホケキョン」だったが、やっと「ホーホケキョ」と聞こえるようになった。 (こっちの寝ぼけた耳がやっと目覚めたのか。) 子どもの成長は速い。(・・・・・大人の成長はナイ?) 少し前から朝早くから起こされる。まずは土管が壊れて大水がでる。 近所の人々が5,6人朝早く「ピンポーン」とやってきて知らせてくれる。 3日前に水道課に連絡しているのだが手が足りないとか、雨が振ると工事ができないのだとかで遅れる。 昼間「カニ」を持って来て遊んでいる子どもがあった。 小学生の登校の「お早う」(7時20分定時から15分)が続いて、今は隣家の解体、穴掘り作業。忙しい6月です。 堤未果 『政府は嘘をつく』 おもしろくというよりも、うなりながら読んでいる。
いろいろなことがはっきりしてくる。<1%>というのはなんだろう。 人間の欲望?バイブルの中の<落ちた天使>? 今死ぬ人間にとって<世界>はどう見えるのか? たとえばシリアの市民には世界はどう見える?多分、私たちのクニの人々とはまったく違うのだろう。アサド氏は、1%組の悪序に見えるのだろう。ムバラク氏もまたしかり、ひるがえってジャパンの小泉氏やノダ氏もまた・・・に見えるのだろう。 「アクマをあわれむj歌」はどこに行った?(ん?「花はどこへ行った」か?) ラップ調のメッセージソングなのだ。子どもの歌もなにか子どもの眼をかりての主張である。
ウタのカタチの同型性から40年前の「ワレワレはぁ・・・・」を想い出した。主張は、カタチの同型性によって需要を強要する。フーム、妙に納得した。 しかし同調してウタえないモノは、ノケモノなのか。 あのスピーディなリズムが体に入らないヒトは放り出されるのか。そういえば、エアロビクスというダンスは、忍たまソングの大人バージョンか。 しかし子どもから大人までなんでムレているのだろう。 バラバラに群れているのではなく、同じリズム、型によってムレてくるのだ。「みんな同じ」によって同じに入れないモノをなんとなく外へはじいている。ソフトファシズム? それともいつもの「アメリカ風」、真似? 県庁探検。
コンクリートが主人公なのだ。 職員はどう考えても脇役というか、一種の備品のようにみえる。(・・・さん、ゴメン) 暗い、生きモノの体感覚がない。匂いも、音も、もちろん声などあろうはずもない。 議事堂棟はお休みで立ち入り禁止。なんじゃこれ。5,6人の記者クラブのクラゲさんが一団でどこかへ消えていった。 25階展望台、遠方はかすんでみえない。 「どこになにがある」式のパネル。土地の地勢はあたりまえだが見えない。小さな箱物が点在している。全体は眼下に広がっているが、見えてこない。この土地の歴史の熱風が押し寄せてくるなんてことはそもそもない。この眼の高さ、抽象の中でこの県の政治の方向が選択されるはずはない。見えないからだ。現在も過去もない広がりだけがある。なにかのモニュメントがほしいと言っているのではない。(水戸芸術館のイソザキアラタ氏のらせん塔はみえる) まぁ、ということで、いつも「右へならえ」なのかなァと・・・。ちなみに知事室ってどこかにあったのかな? 修理屋さんではなく、裏仕事屋さん。
5年前の映画、ジョージクルーニー。 この映画はまるでわからない。やっとラストになって見えてくる。 話の全体が見えない。ひとつひとつのシーン、各人物の関係がバラバラ。問題はここだ。 全体像が見えない、善悪が不明(いかにもそれらしい悪(ワル)がいない。)、話がどこへ飛んでいるのかも曖昧。このすべてが-(マイナス)かと思いきや、+(プラス)なのだ。山の上から見下ろすと全体が見え、個々の配置や関連も見える。だがモノガタリの場合、個々のシーンは、全体の眼で解釈され、そのシーン自体の重量が軽くなり、意味が希釈される。「わかりやすい、おもしろい」が手軽に手に取れる。この映画は、この<抽象化>を嫌った。わからせないのだ。フィクサー、裏工作なのだ。表と裏が入り乱れて当然なのだ。その結果、各シーンの重量がドシンと伝わってくるしかけになった。長回しはない。カットシーンを読ませるのだ。もっとも「読めない」のだが。半分超えてくるとオオヨソノ見当がつけられる。少し落ち着いて見られるようになる。 この方法、わからせるではなく、わからせないという仕掛けは、<神>の不在、正確に言えば<不在>という空位こそ神といっていい。この具象(体)につくか、抽象につくかという<眼>の緊張こそ、この映画「フィクサー」の隠されたテーマででもあったか。 「原子力委員会」、「東大」などというネームの抑圧的バリューに当の委員会や東大はどう感じているのだろうか。
東大名誉教授という肩書きで退官後の仕事をしている彼らをサポートしているわけではあるまいが、仲間なのだという同族意識やプライド(?)が世の中にどう見られ、感じられているか、ひょっとしたら勘違いをしているのではないか。 東大ほどの知性をほこる所の住人なら「ネームバリュー」で職に就く必要はないだろう。 アメリカ映画にあらわれるハーバード大の「尊大」な学閥(=財閥)意識への揶揄はよく眼にするところだが、東大閥やネームバリューへのメディアやムーヴィ監督の<ちょっかい>は聞いたことがない。 相手にする程のこともないということかも知らないが、世間の常識は一枚舌ではないこと、もうひとつの舌がちらちらちろちろと動いていることを知ったほうがいい。 ムーヴィディレクターはどこを見ているのだろうか。 こんなオモシロイ題材を「三谷」君に独り占めされていいの? TVはいざ知らず、ムーヴィの「世界」にはずい分と死者がいっぱいになった。
死んでもまだこの世に出てくるゾンビさんがうようよ、うろうろしている。 (某政党の某君のことではありません。) 私たちの恐怖感もずい分変質したのだろう。鈍感になっただけ? さて、最近のDVDで立て続けに、死体を解体するムーヴィを見ているのだが、映画界の流行(はやり)なのかね。 殺すことが問題ではなく、人間の体を解(ほど)いてしまうのだ。 なにか精神もまた解かれているのだろうか。 いたるところで閉塞感がついに極点にまできたということだろうか。 死体の解体の先にはもうモノガタリの強度は0に近いなにか寒々としたものが漂っているらしい。 恐怖心はどこかでエロスに通じる風であってほしいのだが、ギャーギャーとうるさい音(声ではないぞ)ばかり。 彦六師匠の怪談話がスゴイなァっと思えたのは、「艶」があったからなのだが、 もう時代も世相も来るところまで来てしまったということなのだろうか。 映画とTVの強度の差が歴然としている。
昔からそうなのだといわれれば確かにそうなのだろうが、ここに来てかなりアカラサマになったのではないか。 注意、映画は邦画を指していない。 日本映画は一部を除いてTVの延長のように見える。 内容が空疎というのではない。 <カメラ>が道具的に走り回っているという点が同種なのだ。なぜなのかはイマは定かではないが、空気が抜けている感じなのだ。TVも映画も単なるミステリーでなくミストリーに近い。いかにも嘘くさいシーンにその本質的な状況が見えている。リアルを真似ることにさえ力が入りすぎて、役者の<顔>をそろえただけの画面になっているのではないか。 演ずること、表現することが消えている。 不要な音楽や過大なそして奇矯なシーン、身振りが横行している。 話が流れた。 日本の<表現>シーンのなんとも情けない状況に比して、外国のムーヴィの力の入った映像には<強度>、<世界>に向き合う強い意欲がある。 外国の映画の進歩や進化は、今ある現実の画線の上を滑ってきたものではない。 <世界>を日常や非日常のなかに発見してきたものである。 そうとうに大きな打撃をボディに受けている。このボディブロウに耐えるようにして見いだされたモノが表現の技術を要請しているのだろう。 イマ 「ムーヴィ」 はおもしろい。 |
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