修理屋さんではなく、裏仕事屋さん。
5年前の映画、ジョージクルーニー。 この映画はまるでわからない。やっとラストになって見えてくる。 話の全体が見えない。ひとつひとつのシーン、各人物の関係がバラバラ。問題はここだ。 全体像が見えない、善悪が不明(いかにもそれらしい悪(ワル)がいない。)、話がどこへ飛んでいるのかも曖昧。このすべてが-(マイナス)かと思いきや、+(プラス)なのだ。山の上から見下ろすと全体が見え、個々の配置や関連も見える。だがモノガタリの場合、個々のシーンは、全体の眼で解釈され、そのシーン自体の重量が軽くなり、意味が希釈される。「わかりやすい、おもしろい」が手軽に手に取れる。この映画は、この<抽象化>を嫌った。わからせないのだ。フィクサー、裏工作なのだ。表と裏が入り乱れて当然なのだ。その結果、各シーンの重量がドシンと伝わってくるしかけになった。長回しはない。カットシーンを読ませるのだ。もっとも「読めない」のだが。半分超えてくるとオオヨソノ見当がつけられる。少し落ち着いて見られるようになる。 この方法、わからせるではなく、わからせないという仕掛けは、<神>の不在、正確に言えば<不在>という空位こそ神といっていい。この具象(体)につくか、抽象につくかという<眼>の緊張こそ、この映画「フィクサー」の隠されたテーマででもあったか。
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